特集 改革開放40年 子ども服で豊かな生活実現

2018-12-17 11:24:01

 「流行ファッションならパリ、子ども服なら織里」。これは、浙江省湖州市呉興区織里鎮で最もよく目にしたり耳にしたりする広告のキャッチフレーズだ。かつての辺ぴな貧しい町は、どのようにして今のように、パリにも劣らないとアピールする自信のある「子ども服の都」になったのだろうか。

答えは改革にある。

より良い生活を送るために

織里は16世紀より、絹織物業で繁栄し、どこでも機織りの音が聞こえたので、「織里」と名付けられた。近代以降、同地の紡績業は徐々に衰退した。1970年代末になると、農地不足や人口密集のため、織里では民衆の衣食の問題さえも解決するのが難しくなっていた。

極度に窮すると変革を求めるものだ。同地の多くの村人が、織物、刺しゅう、裁縫などの伝統技術をさらに生かして、計画経済以外にも、自分たちでベッドカバーや枕カバーを生産し、家計の足しにするようになっていた。織里鎮党委員会書記だった呉子性氏が言うには、このような行為は当時、「資本主義の尻尾」と見られていた。そのため、取り締まるべきだと主張する人もいた。しかし、呉子性氏は、これはただ「村人たちが良い生活を送りたい」だけのことだと考えた。

同地の中学校で教師をしていた呉小章氏は、当時を思い出し、家族を養うためにリスクを冒して、「夜、妻と一緒に、刺しゅう付きの枕カバーを縫って、昼になると、こっそり近くの町に行って売りました」と語った。

1978年、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議が開かれ、中国は改革開放の道を歩み始めた。鄧小平氏の「発展才是硬道理(発展こそが絶対の道理だ)」という思想は、春風が硬い氷を解かすように、中国を凝り固まった体制と固定化した思想から解放した。呉子性氏の考えは上級機関の支持を得て、織里鎮は農民の自主経営をはっきりと認めるようになった。こうして、家々からは機織りの音が復活し、人々は豊かになる夢を抱くようになった。

同地の退役軍人の姚水法さんは、次のような思い出を語った。「あの頃、村から遠く離れたことのある人は多くなかった。私は兵役の経験があったので、村人を連れて、天秤棒で数百斤の枕カバーを担いで、地図1枚を頼りに町を出ました。そして、いろいろな所でそれを売りさばいたのです」

村の外へ出た織里の人々は、豊かになるための「最初のお金」を手に入れ、多くの人が「万元戸(70年代に生まれた言葉で、貯金または年間収入が1万元に達した家庭を指す)」になった。商売の才覚に恵まれた織里の人々は、ベッドカバーや枕カバーを作った後に残った切れ端で子どもの腹掛けを作った。それも顧客や商人から大好評だった。

しかし、80年代末になると、付近の大都市で外国製の刺しゅうミシンを使ったベッドカバーや枕カバーが生産され始め、家庭用ミシンとは生産量も技術も比べものにならなかった。織里産のベッドカバーと枕カバーは急に売れなくなってしまった。織里の人々は、より豊かな生活を送るために、新たな転換をしなければならなくなった。

改革精神で「子ども服の都」に

売れ行きが伸び悩む中、織里の人々は子ども用腹掛けが依然として売れていることに気が付き、子ども服市場には進出の余地が大いにあると考えた。こうして、織里の人々は刺しゅうをやめ、子ども服生産の道を探り始めた。

92年8月、織里鎮は経済開発区を設立し、同地の自営業者に土地使用の優遇や減税など、一連の奨励政策を実施した。率先して新しいことに挑む(8)性格の織里の人々は、この好機を見逃さず、次々と工場を建てて子ども服産業に進出するようになった。93年、同地に建てられた「中国織里商城」は、すぐに全国の生地の集散交易センターとなった。97年には、織里に「中国織里子ども服市場」が設立され、各地の卸売業者が仕入れに訪れるようになった。

改革の波の中、同地の農民である濮新泉さんはチャンスをつかみ、6台のミシンを頼りに創業し、子ども服工場を開設した。ところが、生産した子ども服を大都市のデパートに納入した際、濮さんは一つの問題に気付いた。「海外ブランドの子ども服は高価なのに、よく売れている。私の商品は安いのに、それほど売れていない」

この点に気付いた濮さんは、デザインが単一で、体系的でない大ざっぱな生産方式をためらわずに放棄し、96年、今童王公司を設立し、子ども服のブランド化経営を始めた。

濮さんは次のように明かした。「1着の子ども服に関して、生産段階の利益はわずか15%で、80%以上の利益は事前の研究開発段階と後の販売段階で生み出されます。研究開発資金を増やすことだけが、より高い価値とより多い利益を生み出す方法なのです」

2001年以降、織里の子ども服企業は、廉価大量生産の大ざっぱな生産方式を次々と放棄し、より多くの精力と資金をブランド設計と品質保証に投じるようになった。優秀な子ども服デザイナーであれば年収100万元以上も稼げるため、多くのファッションデザイナーが手厚い給料にひかれて織里に集まった。また、スマート化も生産に取り入れられた。今童王の工場には、最新式のコンピューター全自動裁断システムが導入されており、子ども用ワンピース1着を作るのに、生地の裁断から完成まで45秒しかかからないという。

現在、織里の子ども服産業は、デザイン、研究開発、生産、販売から、生地補助材料の供給、物流倉庫保管、ブランド運営まで、ほぼ完全な産業チェーンを形成している。同地には、子ども服生産企業1万3000社、有名ブランド47種類があり、各種の子ども服デザイナー5000人余りがいる。子ども服の年間生産量は13億着(セット)で、年間売上高は500億元を超え、中国国内の子ども服市場の5割を占めている。

子ども服産業を足掛かりに、織里の民営経済は勢い良く発展し、さらに周辺地域の人々が貧困脱却し豊かになるように先導した。

現在、織里は豊かになり、人々は良い生活を送っているが、改革の歩みは止まっていない。目下、同地政府は中国で最も優秀な子ども服ブランドを織里に誘致するために努力しており、集中効果を発揮させたい考えだ。また、「中国子ども服学院」を設立して、子ども服産業の専門人材を育成する計画もある。このほか、アリババや京東(JD.com)などのインターネット通販大手と連携して、倉庫保管、配送、管理、決済、運営が一体となった、現代化された大型倉庫保管物流拠点を構えようとしている。

織里の経済発展が成功したのは、同地政府と人々に大胆に試行錯誤して挑戦する改革精神があったからだと言えるだろう。この精神は、織里が将来発展していくための最大の「宝」でもある。(王焱=文)

 

人民中国インターネット版 2018127

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