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旧広武堡は雁門関長城のふもとに位置し、雁門関の要所にあるため、 「北門鎖陰(陰山を制する北の関所)」と呼ばれる |
明(1368~1644年)の時代、歴代の皇帝は、長城やその周辺の防御用施設建設に力を入れてきた。現在の山西省大同市は、その当時、長城沿いに置かれた軍事要衝「九辺十一鎮」の一つ「大同鎮」がその基になっている。
大同市管轄内には、得勝堡、鎮辺堡、鎮川堡、平集堡、威魯堡など、「堡(砦、城郭)」と名のついた村が多く残っている。これら外敵を防ぐために土を突いて固めて造った砦(城郭)は、もともと軍隊駐屯用の「屯兵堡」と、村民の安全を守る「村堡」の2種類に分かれていた。
今日、「堡子」と呼ばれてきた砦は、本来の機能を失ってしまった。
堡子の昔と今
山西省山陰県の旧広武堡は、約2千年前の前漢時代(前206~25年)から建設が始まった堡子である。ここは交通の要衝にあたるため、歴代王朝がその所有をめぐって争った地であった。戦国時代(前475~前221年)の趙国の李牧、秦(前221~前206年)の蒙恬、前漢の衛青や李広、霍去病、宋(960~1279年)の楊業、明の于謙などの名将らは、兵を率いてここに駐屯したことがある。
戦争の硝煙が消えた今、城壁だけが完全な形で残り、子どもたちの遊ぶ場所となっている。現在も300数世帯の農民が生活しており、トウモロコシやジャガイモ、キビなどの作物を栽培している。
堡子には中国式の伝統的な寺院がない。その代わりに、赤い十字架が立つ瓦葺きでレンガづくりの平屋があった。入ってみると、それはキリスト教の教会だった。中では年配の女性が聖書を声に出して読んでいた。その女性のあとについて、他の女性たちも聖書を読んでいた。子どもたちはそばで遊んでいる。話によれば、このあたりには60人くらいのキリスト教の信者がいて、そのほとんどは女性だという。
ここ数年来の経済発展は、若者の農村離れに影響を与えている。このあたりの堡子も例にもれず、多くの若者が出稼ぎや金儲け、自分自身の成功のために、相次いで村を出て行った。筆者が訪問先で出会ったのは、お年寄りや女性、子どもがほとんどであった。しかし彼らも、それぞれ自分なりの生活を送っていた。
生活スタイルの変化
大同県長城郷の陳日栄さんは、自宅のすぐ裏が長城だ。その恵まれた条件を利用して、現在、民宿を営み、長城を見にきた旅行者や写真愛好者、外国の観光客などを受け入れている。地元の新聞紙で、その生活を報じられたこともある。
右玉県平集堡に住む李自成さんは、代々農業を営んでいる。廃棄された古い舞台を家畜の飼料置き場にしているが、その舞台に残る精緻な彫刻を施したレンガから、この村の往時の繁栄ぶりがうかがえる。
左雲県威魯堡の郭雲祥さんの夫は、よそで教員をしているので、家に帰るのは週に1回だ。3人の子どもも、それぞれほかのところで勉強したり、仕事をしたりしている。郭さんは一人の時間をつぶすために、家畜の飼育を始めた。牛やダチョウの飼育で、年間収入は4万元。堡子では高収入だと言える。
堡子で迎える新年
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旧正月の15日は鎮辺堡の村民たちが自分で楽しむ日であり、 朝早くから多くの人が化粧して、街に出て祝日を祝う |
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竜踊りやヤンコ踊りをしながら、堡子の中から外へと練り歩く |
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村民たちは「旺火」を囲んで、中国武術のしぐさを取り入れた「踢鼓ヤンコ」を踊る |
毎年旧正月になると、堡子は活気づく。よそへ出て行った人が家に戻り、一家団欒の日々を楽しむ。いちばん賑やかになるのは旧正月の15日だ。
大同県鎮辺堡は、明の嘉靖年間(1522~1566年)に建設された5つの防御堡の一つである。5つの堡は、長城に沿って12.5キロごとに一列に並んでいる。
旧正月の15日、鎮辺堡の人々は早朝から忙しく動き回る。街のいたるところに灯篭が飾りつけられ、村内放送用の拡声器からは山西省の伝統劇の音楽が流れる。パフォーマンスが得意な人が集まって、化粧や変装をし、竜を模した舞踏道具を上げて踊ったり、竹と布でつくった模型の船を腰に結びつけて歌ったり、ヤンコ踊りをしたりしながら、村じゅうを練り歩く。みんなでいっしょに大切な祝日を盛り上げる。
大同市南部の懐仁県は、豊かな石炭資源に恵まれている。ここでは、また別の方法で新年を迎える。旧正月の15日、人々は自宅の前や村の中心部の広場に、石炭で塔を築く。一番高いのは10メートルにもなる。地元の人はそれを「旺火」と呼ぶ。夜になると、その「旺火」を燃やし、火を囲んで踊ったり、回ったりして、新しい一年の家族の安全や商売繁盛などを祈る。(劉世昭=文・写真)
人民中国インターネット版 2009年4月29日
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