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龍門石窟の魅力

 

 龍門石窟は河南省洛陽市の南郊12.5キロに位置し、龍門渓谷の東西の山崖に掘られている。北魏、孝文帝時代(471~499年)に営造が始まり、400年余りを経て完成、今日まで1500年の歴史を経ている。龍門石窟は、南北約1キロの長さに、1300余りの石窟が現存し、窟龕は2345余り、刻記は3600余り、仏塔は50座余り、仏像は97000尊余りとなる。

 

龍門石窟

 

時代ごとの審美眼により形成された異なる造形の味わい

 龍門石窟の造像のなかで、唐代の造像は、約3分の2、北魏の造像は約3分の1を占める。時代ごとの審美眼がおのずと石窟の造形の味わいに影響を与えている。北魏時代は、痩身が美であり、唐代は比較的豊満である。 芸術表現の手法においても、唐代と北魏は大きな違いがある。唐代になると丸みをおびた彫刻法が北魏の平直な彫刻法にとって替わり、仏像の衣のひだは風に舞うごとく、力士、夜叉さえも、勇壮な気勢と力に満ちたものになった。 

奉先寺の唐代の彫塑

 

龍門の蓮の花

 龍門の石窟は仏教文化の聖地である。蓮は仏教とは深い縁で結ばれたもので、仏教は西方の極楽世界を清らかで穢れのない蓮の花の境地に例えてきた。龍門石窟はすなわち蓮の花の世界であり、いたるところ、造形の異なる生き生きとした蓮の花の彫刻がみられる。 龍門では、蓮の花と彫像との、もっとも巧みな組み合わせとして、北魏期の蓮花洞の造営が挙げられる。蓮花洞は、天然の洞窟を利用して造営された窟であり、頂には、美しい蓮の浮き彫りが施されている。その直径は3メートル余りである。洞頂は、蓮の花を天蓋とし、その花芯は円形で、種子をもち、大きな花弁が囲む。大きな花弁は間に小花弁をはさみ、花の姿は豊満で、素晴らしい芸術性を持つ。北魏期の洞窟には、天蓋の装飾図案として蓮の花が構図の中心となるのは普遍的であるが、蓮花洞ほど巨大で、浮き彫りとなった蓮の花が主体となった天蓋は稀である。

蓮花洞の蓮の花(上)と仏像(下) 

 

厳しく慈悲深い盧舎那大仏

 龍門石窟の造像のなか、最も大きく、最も美しく、芸術価値が最高のものは、盧舎那大仏である。盧舎那はサンスクリット語であり、智慧と光明があまねくいきわたる、という意味である。この仏像は、唐代の則天武后時代に造られている。顔はふくぶくしく、姿勢は安らかで、慈悲深い中年女性のようである。像は唐代の仏像の芸術的特徴を現し、「東方のビーナス」ともいわれている。伝説では、唐代の女帝である則天武后は、自らの功徳を称えるため、自分の容貌に似せて盧舎那大仏を造らせたと伝えられる。造営の始まりには、則天武后は、自らの「脂粉銭」から2万貫あまりも寄進、盧舎那大仏の開光儀式にも参加している。 盧舎那大仏には、弟子の阿難、迦葉、菩薩と力士がいる、これらの彫像は、あるものは慈悲深く、あるものは敬虔、またあるものは強烈であり、盧舎那大仏と呼応して、完璧な石窟群を形成している。

 盧舎那大仏

 

中国石窟芸術の変革の記念碑

龍門地区の石窟と仏龕は、中国の北魏後期から唐代(即ち493年から907年まで)にかけてのもっとも規模の大きく、優れた造形芸術である。題材は豊富であり、仏教を精緻に描く芸術作品は、中国の石刻芸術の最高峰である。2000年11月、龍門石窟は世界文化遺産となっている。 龍門石窟は、大量の宗教、美術、書道、音楽、服飾、医学、建築、内外の交通などの方面の資料を残し、石刻の形式で、5世紀から10世紀を記録し、このような歴史があり、また価値のある文化は、大型の石刻芸術博物館ともいわれる由縁である。また、龍門石窟造像には、中国の美意識が融合され、中国化の趨勢が示され、中国石窟芸術変革の記念碑的な存在とされる。(写真=于明新  文=王丹丹)

 

人民中国インターネット版 2009年10月

 

 

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