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山奥に息づく明代の面影

 

高原=文 馮進=写真

清代末期に建てられた隆里古城内の「書香第」。その建物名には「読書人の家」という意味がある
貴州省黔東南ミャオ(苗)族トン(侗)族自治州錦屏県に位置し、山々に囲まれた隆里古城は、600年以上の歴史を持つ「屯堡」古城だ。「屯」は駐屯した漢民族の軍隊のことで、「堡」は同行した軍人家族の住居のことだ。ミャオ族とトン族の文化の色濃い土地に所在し、数百年にもわたって、周りの少数民族に同化されることなく、今でも明・清時代の「屯堡」のレイアウトや民家の建築群が残されており、「花臉龍」の舞や「漢戯(漢人の芝居)」など伝統的な風習を保っている。彼らが周りの少数民族の村と姻戚関係を結び始めたのは、ここ数十年のことで、隆里古城は驚嘆すべき「漢文化の孤島」と言える。

軍隊駐屯の城

隆里古城の歴史は、明の洪武18年(1385年)にまで遡る。当時の明太祖である朱元璋の6男、朱楨は30万人の大軍を率いて、西南地方へ遠征し、騒乱を鎮めた後、現地に軍隊を駐屯させて「軍屯」を実行した。隆里は要衝に位置し、産物が豊富で、居住に適していたため、ここに「龍里千戸所」を設置した。辺境の要衝に駐屯する兵士が安心してその地を守ることができるように、「軍隊に所属する際には、家族全員と同居させる」という措置をとり、家族は軍隊に同行して、共に隆里に来て軍籍に入り、「軍戸」と呼ばれた。

清の順治年間(1644〜1661年)になると、朝廷は「軍戸」を廃止して「農戸」に変更し、これにより隆里の軍事的な機能が弱められ、次第に漢民族が集まる農業村落へと姿を変えた。しかし、今日に至るまで、隆里古城のいたるところに、在りし日の軍事「屯堡」の面影が見られる。

例を挙げると、隆里古城は丈夫な城壁に囲まれ、城外には堀がめぐらされている。また城内の街道にはT字路しかなく、十字路が見当たらない。これは進入した敵が城内へ一気に突き進むのを防ぐためだ。そして中国語の「十」と「失」は発音が似ており、それは兵家にとってはタブーで、縁起が悪いものとみなされていた。別の例として、多くの民家の裏庭には、人の背丈半分くらいの高さの裏門が密かに設けられており、その門は一軒いっけんの家に通じているので、敵が攻め込んできたとしても、老若男女、住人全員が迅速かつひそかに城外へ脱出することができる。

伝統的な漢文化の風習が今でも受け継がれている隆里古城。明・清時代は貴州の重要な辺境守備の町だった

古城の玄関口である清陽門

これらの厳格な防衛措置を講じ、守るに易く攻めるに難い態勢を保っていたが、それでも隆里は決して難攻不落の城ではなかった。洪武30年(1397年)、当時の「龍里千戸所」は現地で蜂起したミャオ族に攻め落とされ、軍人の家族は散り散りになって逃げ去り、軍は多くの死傷者を出し、特に南門東側の城壁のたもとでは、血が川の流れのようになったという。その痛ましい出来事から、すでに数百年ほど経過したが、隆里の人々は依然、当時の騒乱がもたらした痛みを忘れられず、現在でも日が沈むと、かつて血に染められたその道の往来を避けている。

城壁に囲まれた隆里古城

左遷の城

隆里古城は少数民族が住む土地に位置し、他の漢文化の村からは、ほぼ隔絶されている。なじみのない周囲の世界に対し、現地の人々は終始ある種の複雑な思いを抱いている。

一方で、彼らは現地の少数民族よりも遥かに勝る農耕技術を持ち、誇るべき伝統的な文化と社会制度を有していることを自認しており、このゆえに優越感を抱き、数百年にもわたって周囲の少数民族と姻戚関係を結ばず(この習慣はここ数十年間で廃れた)、文化の同化を拒絶し、中原人の身分に誇りを抱いている。現存している隆里の民家の門から、彼らの元々の家柄が分かる。「蘇湖世第」と書かれた扁額は、この家の住人が江蘇省太湖の出身であることを表しており、「済陽第」と書かれたものは、祖先が山東省済陽出身という意味だ。「科甲第」「書香第」は、先祖に科挙試験に合格した者がいるか、あるいは読書家の家柄であることを表している。特筆に値する優れた家柄でなければ、「耕読第」の扁額を掲げている。この語には「農耕が富をもたらし、読書が栄誉をもたらす」という意味がある。

隆里古城の陶家院は、清代末期に材木商を営んでいた陶明哲の住宅で、その門や窓の精緻な木彫りは現在に至るまで大切に保存され、古城内で当時の姿を最も完全に残している民家だ

陶家院の門や窓の精緻な木彫り

陶家院にある古い机の「編鐘」を

一般民家の門の装飾よりもさらに豪華で、より深い意味が込められているものは、各家庭の祠堂の門に掲げている扁額や対聯(対になっている縁起のよい言葉)、壁画だ。これらには、この一族の移動史や、子孫に対する訓戒が詳細に記されている。軒下には五つの白菜が彫られており、「潔白さをもって官吏となる」という意味が込められている。まぐさに描かれている二本のうねうねとした川の流れは、祖先がかつて暮らしていたところを表している。中央政権や出世の道とは縁がなく、故郷の中原からも遠く離れたこの場所で、このような図案を見掛ける時、隆里の人々の誇りと喪失感を感じることができるだろう。

隆里の人々は、豊かな中原地区から、このような寂れて荒涼とした辺境の「屯堡」に遣わされたことを、事実上の左遷とみなしている。彼らの誇りには、幾ばくかの物寂しさや怒りも混ざり合っている。それゆえ、彼らは唐代の有名な要塞の詩人、王昌齢を特に崇拝している。王昌齢は一生のうちに何度も嶺南と湘西一帯に左遷された。隆里の人々は、彼が以前に隆里古城に来たことがあると信じている。この伝説の真実性は、今に至るまで証明されていないが、隆里の人々は代々そのことを心から信じて疑わない。今でも、隆里古城内に龍標書院が現存しており、言い伝えによると、その建物は王昌齢がこの地に左遷されて龍標尉に任じられた時、教育を大いに提唱して、社会的な気風を変革した際に生まれた賜物だという。古城外にある状元橋、状元祠、状元亭はいずれも王昌齢を記念するために建てられたという。これらの他に状元墓もあり、それは王昌齢の衣服を納めた墓だという。当時の龍標書院から今日の隆里小学校に至るまで、代々の教師と生徒が毎年、清明節の際に必ず参りに行き、偉大な先人への敬意を表している。この風習から、左遷された詩人が隆里の人々の強い共感を呼んだことをうかがい知ることができる。

隆里古城にある王氏の祠堂

定年退職後に隆里古城へ戻り、時代の流れを経た先祖の祠堂を仰ぎ見て、まさに感慨無量の様子を見せる男性

「花臉龍」の頭部を制作している王先吉さん。頭部を作ることができる熟練した職人は、隆里古城でも今では数少ない

夕方になると、お年寄りや子どもたちが城門の下で世間話をしたり、遊んだりしている

隆里古城の各家庭で祖先の位牌が祭られている

 

人民中国インターネット版 2013年1月

 

 

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