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江蘇省南京市 南北の文化が混然一体

 

高原=文 馮進=写真

南京は北京、西安、洛陽、開封、杭州、安陽と並んで中国の七大古都の1つに数えられ、2500年余の都市の歴史と500年余の首都としての歴史を持つ文化都市であり、「六朝古都」「十朝都会」の美名も残る。古来、蒼海変じて桑田となると言われるように、南北の文化が融け合い混然一体となり、華東地区の中心都市であり、また現代的な製造業の基地でもある。南京が話題になると、一人ひとりの心に、ある種の尋常ではない複雑な感情が沸き起こる。こうしたことも南京を特別な意味のある都市にしている。

■ここは上海? 東京?

地理上、南京は中国の南北の境目を流れる長江沿いに位置している。そのため、街のたたずまいは南北文化の融合の結晶といえる。

中華門をくぐり南京市街に入る都市鉄道の駅 便利で速い南京の地下鉄

列車で南京に到着した後、新しい都市鉄道に乗って市街地に入った。道すがら、車窓からうねうねと続く路地が見え、道路の両側にはプラタナスの街路樹が整然と連なり、家屋がびっしりと並び、列車と触れ合いそうな距離に高層ビルが建っていた。駅に着くと、ドアが開閉するたびに、心地よい音楽が流れ、しっとりした空気を吸うと、上海か東京に着いたような気分になった。車掌がアナウンスする駅名を聞いて、やっとここは南京だと気がついた。さらに進むと、安徳門、西安門、玄武門、鼓楼、新街口。北京の地下鉄とよく似た駅名は、昔の都の輪郭を思い起こさせてくれる。

約600年前の明王朝は南京に数多くの痕跡を残し、他の江南の都市との違う威風堂々とした雰囲気が漂う。1366年に建設された南京故宮は、明初の洪武、建文、永楽の三代の皇帝の皇宮だった。南京市街地の東部に位置し、宮城と皇城の二重構造になっており、三大宮殿が中軸線をなし、シンメトリーに配置され、封建皇帝の権力と威厳を体現している。現在、内外によく知られている北京故宮は、南京故宮を元にして造営された。ただ残念なことに、南京故宮はすでに戦火で破壊され、午門、東華門、西安門、内外の五龍橋、鼓楼など地上の建築物が残っているだけだ。

かなたに見える現存している明代の南京故宮の建築物

南京故宮はすでに歴史の煙雲のかなたに消えたが、現代の南京の都市構造はその影響を大きく受けている。例を挙げると、ここには南方の都市ではほとんど見かけない中軸路があり、中央路、中山路から中山南路まで、プラタナスに覆われた幹線道路は南京のにぎやかなビジネス街を通りぬけ、旧市街地と新興ビジネス街を貫いている。

■秦淮河が醸す南方風

南京の中華門とりでは中国に現存する中で最大だ。これは従来、明朝の首都時代に、正面に建設された南門で、規模は壮大、構造も複雑だ。城門を取り囲む半円形の城郭は三重になっており、上部に兵隊を隠しておく27の洞窟が作られ、3000人余の兵隊が駐屯できる。敵が攻めてきた場合には三重の城郭で分断し、城門を閉じれば、敵を壊滅できる仕掛けだ。中華門の城壁に登り、北京、西安、平遥(山西省晋中市)の古都に共通する質朴、平穏、剛毅にしばし思いを馳せた。ただひとつ違うのは、はるかかなたを見渡すと、そこには整然と建ち並ぶ四合院ではなく、穏やかに、生き生きと流れる秦淮河だったことだ。

南京の中心を流れる秦淮河。有名な夫子廟、江南貢院はこの河畔にある

秦淮河の河畔観光に活躍する人力車

秦淮河は南京の母なる川だ。南京に江南の都市に共通の聡明な美しさと慎み深さを与えているのは恐らくこの川の存在だろう。南唐時代以来、秦淮河の両岸は大勢の商人が集まるにぎやかな場所だった。その後、夫子廟、江南貢院、教坊司などが次々に建てられ、多くの文人が往来し、数え切れない風流美談を残した。

現在、秦淮河から夫子廟にかけての一帯は、新街口のハイエンドなビジネス街とは同日に論じられないが、南京の特色のあるマーケットや食べ物屋を体験しようと思えば、この一帯に足を運ばないわけにはいかない。アヒルの血の煮こごりを入れたハルサメスープ(鴨血粉絲湯)をいただき、これに「サツマイモの砂糖漬け(糖山芋)」「モクセイの花のハチミツ漬けと甘酒のカス入りの元宵団子(桂花酒醸小元宵)」を添えると、舌の先から心の中まで甘くなる。

南京名物の食べ物屋にもいろいろ

■不遇の歴史をかこつ

南京は2500年余にわたる歴史の中で、三国時代の東呉、東晋、南北朝時代の宋、斉、梁、陳、五代の南唐、明朝、太平天国と中華民国の首都だった。偶然の一致なのか、あるいは神のみぞ知るある種の必然なのか、これらの政権が中原を統治した期間はいずれも長くはなかった。そのうち、明朝は例外といえる。南京に建都してからわずか54年後、北京に遷都したからだ。

こうした不遇な歴史から、南京にはどうしても悲しい雰囲気がつきまとう。たとえ美しい秦淮河を見て、人々がまず思いつくのは唐代の詩人・杜牧の『泊秦淮(秦淮に泊す)』の一節だろう。

商女不知亡國恨  隔江猶唱後庭花  

商女は知らず 亡国の恨みを  江を隔てて猶唱う 「後庭花」

秦淮河のほとりに泊まった。酒場から歌が聞こえる。歌姫たちは知らないのだろう。陳後主が酒びたりでついに陳朝を滅ぼしてしまったという亡国の歌だということを。河の対岸の酒場では、いまだにその『玉樹後庭花』の歌を歌っている。  

そして、1937年に起きた南京大虐殺が人々の心に深く刻み込まれていることは言うまでもない。
南京大虐殺記念館前。十字架に南京大虐殺が行われた期間が記され、30万人の犠牲者を弔う記念壁は記憶を新たにさせる 南京大虐殺記念館を訪れ献花する人々
「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞(南京大虐殺)記念館」を訪れた人々は、必ずそこのしめやかで静かな雰囲気に引き込まれるだろう。漆黒といっていい大ホールで、大型スクリーンに次々に映し出される肖像、壁に刻まれた一つひとつの名前に代表された人々は大虐殺の犠牲者だ。展示ホールに展示されているすべての写真、すべてのインタビューの録画は、いずれも「歴史を記録、死者を偲ぶ」という理念を受け継ぎ、客観的に歴史を述べ、理性的、抑制的だ。

ここには憎しみに対する誇張はなく、静かな反省だけがある。多数のろうそくが灯る瞑想ホールに入ると、侵略者の後代であろうと、侵略された側の子孫であろうと、いずれも静かに反省する必要があると感じる。なぜならば、これは南京の悲劇だけではなく、全人類の悲劇だからだ。

 

人民中国インターネット版 2013年3月21日

 

 

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