最盛期、一万の馬が通った麗江
世界文化遺産として日本人観光客にも人気が高い麗江古城。人口2万5000人のうちナシ族(納西族)が約66%を占め、中国でもっとも完璧に保存されてきた古城の一つである。キャラバンを組んでチベットに向かっていた時代、ナシ族の人々は、人と馬とが共存する家こそ完全な家庭だと考え、馬の肉を食べず、馬の皮で作った衣類を身につけることもなかった。
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ナシ族のキャラバンの習わし
剣川の沙渓古鎮を後にして、雲南・チベットルートの茶馬古道に沿って北上を続ける。ふと気づくと、目の前に玉竜雪山が高く聳え立っている。その真っ白な峰は、雲に遮られたかと思えば、まばゆい太陽の光に照らされ、非常に魅力的である。ため息が出るほどの美しさだ。
麗江古城は標高2400メートル、面積3.8平方キロで、雲南省西北部にある「麗江ハ子」と呼ばれる山間の盆地の中部に位置する。
古城で茶馬古道の跡を探し求めていると、一人のナシ族のお年寄りが、かつてのナシ族のキャラバンの習わしを紹介してくれた。
ナシ族の人々は、人も馬も多ければ多いほど、家族の隆盛を物語ると考えていたという。
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ナシ族の民族衣装。長い中国服の上からにチョッキ、ズボンを身につけ、プリーツスカートをはく。もっとも特徴的なのは背後の羊皮のストールで、二寸ほど大きさの刺繍の布を包んだ七つの輪がついているのは、「朝は暗いうちに起き、夜は暗くなるまで働く」という意味をこめた七つの星を表している |
「頭馬」の飾りは独特である。首に丸くて大きな銅の鈴を結び、頭には赤く染めたヤクの尾を飾る。顔には丸い鏡をはめた赤いコールテンの仮面をつけ、その周りを「炎」と呼ぶギザギザの黄色いレースで飾る。胸を張り首を高々ともたげて進む様子は、非常に頼もしく見える。2番目の馬にはひとつながりの鈴がかけられる。これといって特徴のない普通の馬には、桶状の鉄鐸がひとつだけかけられる。形の異なる鈴が響く音はそれぞれ違うため、途中で頭馬とほかの馬の位置が判断でき、進行状況を把握することができる。
古城のナシ族の商店の店主は、ほとんどがキャラバンの「馬鍋頭」(馬方の頭)であった経験を持つ。史書の記載によると、キャラバンの最盛期の馬の数は、屋号「達記」では300頭、「仁和昌」では180頭、「元徳和」では100頭あったという。もっとも多いのは30~50頭の馬を有する商店であった。毎年、麗江からチベットへ向かうキャラバンの馬の数は、最も多い時期で1万頭以上に上った。毎日、300頭ほどの馬が麗江を通っていった。
麗江のナシ族の馬宿は、ほかの馬宿とは異なる。客を接待する以外、世話をするのは馬鍋頭の馬だけである。その他の荷物を運ぶ馬は、荷物を乗せたり降ろしたりするときだけ、店に連れてこられる。あとは馬方(キャラバンが雇ったチベット族の人)が牧草地まで連れて行って放し飼いにし、馬小屋に入ることはできない。
ナシ族のキャラバンは普通7頭の馬で1隊とする。8頭のキャラバンもまれにある。短距離または比較的安全なところでは、1隊の単独行動もあるが、越境や長距離輸送になる場合には、安全のために必ず3~5隊のキャラバンが一緒に出かける。ナシ族の商人が担当する馬鍋頭は、一番後ろにつくが、強盗が多いところを通る際には、先頭で銃を持って危険に備えることになっている。チベットに向かうキャラバンのナシ族の馬鍋頭のほとんどは、チベット語を解する。チベットに入ると、チベット族の服やブーツに着替え、チベット語で現地の人と言葉を交わす。こうして相手の信用を得ることで、商売もスムーズに進めることができる。
宿場に着くと、馬鍋頭はお酒、お茶、黒砂糖、春雨などを手に、村の得意先のもとを訪れ、まぐさと交換しに行く。同時に、荷物や鞍や敷物をおろし、それぞれ分けて並べる。またサルオガセ(下がり苔)やキバノロ(シカ科の動物)の毛を入れた敷物を広げ、臨時の寝床とする。テントを張ったあと、馬を牧草地へ追いに行く。このとき炊事の煙を立ち上らせて、トウモロコシのご飯を作り始める。トウモロコシと小麦粉を混ぜて煮てから焼いたもので、作るときには「3回上げて、3回下ろす」。すなわち、沸いたら鍋を火から下ろし、沸騰しなくなったら、再び火の上に移す。これを3回繰り返して水分をすべて蒸発させたあと、蓋をし炉に移して焼く。焼いている間にたびたび鍋を回すが、その回し方にはキャラバンならではの決まりがある。往路では鍋を左へ回し、復路では右へ回す。道中の無事を祈る思いがこめられているという。