いよいよチベット自治区へ
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瀾滄江の河谷に位置するジャダ村と塩田 |
雲南省迪慶チベット族自治州北西部に位置する徳欽県は、チベット自治区のマルカム(芒康)県、ゾゴン(左貢)県、ザユイ(察隅)県に接している。有名な梅里雪山はここにあり、中国の世界文化遺産「三江併流」地域の主な景観の一つとなっている。徳欽県を過ぎ、瀾滄江(メコン川上流)に沿って谷底に下れば、マルカム県のツァカロ(塩井)郷がある。高原雪山の美しい景色、古くから耕されてきた瀾滄江岸の塩田のいずれもが、印象深い。
梅里雪山を仰ぐ
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朝日を冠した梅里雪山 |
雲南省とチベット自治区の境にある梅里雪山は、徳欽県から東北方向に約10キロメートル離れた怒江(サルウィン川上流)と瀾滄江の間に位置している。北はチベット自治区のアドンゲニー(阿冬格尼)山、南は碧羅雪山に相連なっている。高さ6000メートル以上の峰は13あり、「太子十三峰」と呼ばれている。そのなかのカゲボ(白い雪山の意味)主峰は標高6740メートルで、雲南省一高い峰と称えられる。梅里雪山はチベット族の人々にとって、神山に等しい存在であり、毎年チベット自治区、四川省、雲南省、青海省などから多くの信徒が参詣に来る。
夜が明けないうちに、「起きろ! 起きろ!」というせわしない叫び声で目が醒めた。急いで服を着て、暗いなか車に乗りこみ、出発した。暗闇の中、車列の灯りが炎を吐き出す竜のごとく壮観であった。しばらくすると、雪山の麓に到着した。山中の気温が低いため、みんな三々五々群れをなして集まり、体を暖めた。目の前は真っ暗ではあったが、巨大な雪山がすぐ近くにあることは感じ取れた。
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瀾滄江の両岸の塩井と塩田 |
やがて、空の果てから一筋の光が射した。巨大な雪山の輪郭がぼんやりと現れ、みな騒ぎ始めた。凍りついた手をぐっと握りしめ、急いでカメラを構え、日の出が神山に光をこぼす瞬間が来るのを待った。一輪の真っ赤な太陽が、いきなり背後の雲海から躍如として昇ってきた。カゲボ主峰の頂上が赤に染まった。みなわくわくしながら雪山が全貌を現すのを待つ。しばらくすると、真っ赤な朝日が雲と霧を追い散らし、オレンジの日光が主峰一面にこぼれ、まるで童話の世界に入りこんでしまったかのようであった。「見えた!見えたぞ!」とみな興奮して歓声をあげた。私は神聖な雪山を仰ぎ見てから、その美しい瞬間をカメラに収めた。
古き塩井
梅里雪山での撮影を終えると、すでに周囲は明るくなっていた。野外で二時間あまり立ちっぱなしだったため、全身冷え切ってぶるぶる震えていた。急いで荷物を片付け、山上にある小さな店で熱い麺をすすると、ずいぶん体が暖まった。引き続き、ツァカロ郷を目指して出発した。
貨物をロバに背負わせ、帰宅の途につく梅里石村の村民
道が次第に悪くなってきた。でこぼこの道の上を、車は上下に激しく車体を揺さぶりながら走る。車輪が巻きおこした砂埃に視線を遮られ、スピードを落として慎重に進まなければならなかった。
ツァカロ郷のジャダ(加達)村は、チベット自治区に入って初めての村である。山から下を眺めると、瀾滄江のほとりにあるジャダ村はびっしりと濃密な木の陰になっている。瀾滄江の両岸の古い塩井と高低差のある塩田が、この小さな村に神秘的な雰囲気を加えている。
ツァカロ郷からジャダ村へと下っていく道は勾配が急で狭いため、一方通行となる。そのため下山する車はまず人を先に崖っぷちまでいかせて、上ってくる車がないかどうかを確認させる。また麓から上ってくる車も人を先にいかせ、上から下に向かう車があるかを確認しなくてはならない。上るにせよ、下るにせよ、対向車がすれ違うことはできない。このときは、ずっとそこで様子を観察している人が手を振って、通れることを合図してくれた。車は谷底に向かって少しずつ進んだ。路面は雑草に覆われて路盤がはっきり見えない。車輪の数十センチ外は懸崖絶壁であり、少しでも油断すれば深い谷底に落ちてしまう。車内の人はみな息を止め、黙りこくったまま、ドライバーを心配して手に汗握ってびくびくしていた。案内人に導かれるようにして、車列の車は次々にゆっくりと、無事に川のほとりまで降りることができ、ようやくみなほっと胸をなでおろした。
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徳欽県に続く山道を走る列車 |
彼の話によると、かつてキャラバンが梅里石村から川を渡るときには、一本のロープを滑るようにして渡ったという。川を渡るには、まず貨物をケーブルに掛けて向こう岸まで滑らせる。水が少なく川が浅い時期には、馬で渡ることができるが、増水して水位が上がっているときには、人もラバも馬も順番にケーブルにぶら下がって、向こう岸まで滑っていくしかなかった。馬や貨物が川に落ちることもたびたびあり、きわめて危険であった。
橋を渡った後、川に沿って30分ほど歩くと、ようやくジャダ村に到着した。この村はツァカロ郷の塩を生産するジャダ村、下ツァカロ村、上ツァカロ村、九家村の四村の中で一番規模の大きい村であり、製塩の歴史も長い。明代麗江の第5代木氏土司(当時の少数民族の族長)の木青が、軍隊を率いて茶馬古道に沿って金沙江(長江の上流)から北へと勢力を拡張。三江流域が開発され、ナシ(納西)族の製塩技術がこの地にもたらされ、塩泉を切り開き、「塩官」と呼ばれる管理者を置き、塩の生産、販売、徴税なども行った。現在の地元の人々は、かつての征西兵士の末裔かもしれない。
ナシ族の若者たちと製塩
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ジャダ村のティブツリンさん(左)と仲間 |
川のほとりの赤色の砂礫地帯にはたくさんの塩泉がある。村民は鋤で塩泉を掘り出し、直径2~3メートル、高さ4メートルの円形塩井を石で築き、塩水を汲む。川の水が氾濫して塩井を水浸しにしてしまうようなことがあれば、塩水は汲めなくなってしまう。
川の両岸に約1.5キロメートルほど続く塩田は坂に沿ってつくられ、まず木の板を敷き、下を丸太で支え、最後に土で埋めて平らに固める。現地の人々はこれを木楼と呼ぶ。その面積や高さは地形によって決められ、6~7メートルのものもあれば、1~2メートルのものもある。6、7層にも重なり合い、非常に壮観である。
村の人の話によると、現地では製塩に一番良い季節は旧暦3月、つまり桃の花の咲く時期だという。その時期、村中の人が塩田に入り、製塩に追われる。まず塩井から塩水を汲み、塩水を塩池に流し込んで溜める。風や日に晒し、自然に濃縮した後に、再び塩田に運ばれ、日に晒して乾かす。瀾滄江の東岸は険しく、西岸は緩やかであるため、塩水を運ぶ際、東岸のナシ村と上ツァカロ村の村民は木あるいは竹で内径約20センチ、深さ約50センチ、30キロ以上の水が汲めるバケツを造り、それを背に載せて運ぶ。それに対して、西岸のジャダ村では直接天秤棒で水を担ぐ。
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女が畑仕事をし、男が子育てするのはジャダ村のしきたり |
採取された塩は数軒の家が共同で使っている塩倉庫に積み上げられる。盗難防止に、積んである塩にはそれぞれの家のマークが印刷されている。倉庫がいっぱいになると、塩を扱う商人が買い入れに来る。また、キャラバンに運ばれてツァカロ郷などにも売られる。ティブツリンさんは言う。「村では家ごとに2頭のロバを飼っています。主に塩を運ぶためです。一頭のロバは200斤(一斤は500グラムにあたる)の塩を背負うことができます。家は製塩で、年に1万元くらいの収入が得られます」
ジャダ村を発つとき、中学を卒業したら何になりたいかと尋ねると、ティブツリンさんはこう言って笑った。
「英語の先生になりたいんです。最近山にはたくさんの外国人観光客が訪れるようになりました。英語ができれば彼らとコミュニケーションし、交流することができます。それに、将来私はぜったいにここを出て、外の世界を見てみたいんです」(馮進=文・写真)
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