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良渚(下)五千年前の国都

 

良渚古国はどこにあったか

瑶山祭壇遺跡の発掘当時の様子(良渚遺跡管理委員会提供)

良渚古城遺跡の発見は、国内外の考古学界を沸き立たせたが、同時に劉さんを考えさせた。この20何年つぎつぎ発掘されてきた祭壇、墳墓、宮殿、古城などを全体から見て、良渚はもはやひとつの国だと彼は考えた。五千年前に、幅40から60メートル、高さ4メートルの城壁を造り、しかも石材や黄土は山から採って運んだのである。どれだけの人間が必要だっただろうか。もし3人が1日で1立方メートルを造ると計算すると、この工事を完成するのに1万人で4年かかる。このような長期の大工事を計画し、実施するには、国家規模の強力な政権がないと、とても完成できない。

厳文明教授がもっとはっきりと言っているが、中国の古代の国は基本的に一つ一つの都城であり、それを「国」と呼んでいた。「国」という字には囲みがあるが、それが一つの「城」である。したがって、城壁のあるなしが氏族社会と初期文明社会を区別する重要な指標である。「良渚古城は工事の規模が極めて大きいため、大規模な組織で大量の労働力を動員し、かなり長い期間をかけて造営する必要があった。その背後には、しっかりとした社会の協調と支配のメカニズムがあって保障し、運営していることは明らかである」。厳教授は当時の良渚文化にはすでに政権が存在していたと推測している。

考古学の発掘で明らかなように、良渚文化地域はおもに長江デルタに分布し、もっとも密集しているのは太湖流域で、浙江省、上海市、江蘇省が含まれる。もっと拡大して言えば、西は安徽省、江西省、北は山東省などに至る。これについて、厳教授は「良渚」の勢力は中国の半分を占拠したとし、もしかなりの軍事、政治組織がなければ、このような比較的発達した経済や文化のレベルにはなりえなかったと考えている。

では、良渚古国の軍事、政治権力の中心はどこにあったのか。考古学の発掘では、当時の生産力の程度や集落の密集さ、大型祭壇、貴族墓地群及び宮殿、古城壁など重要な遺跡の発見なども、ほとんどが良渚とその周辺に集中している。したがって、良渚は当時の軍事と政治の中心地であり、良渚古城は良渚古国の都であったとすべきである。

もう一つの証拠がある。良渚古城の北側、葛家村、盧村の西側、塘山を越えてもっと西側に行くと、長さ5キロメートル、幅20から50メートル、高さ3から7メートルの「土塀」がある。考古学者がこの土塀を4回発掘した結果、良渚時期に人工的に営造した大規模防護工事だったことが実証された。これは良渚古城の外郭の城壁のようである。

ということは、当時、莫角山高台に造られた王宮は、内城と古川筋だけではなく、外城もあって3つからなる防衛線があり、堅牢な配置であったようだ。

 

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