馬王堆(上) 生けるがごとく出土 前漢の貴婦人の謎
再現される王侯貴族の暮らし
功績をあげて侯に封じられた利蒼は、長沙国の宰相の座にあって十分な俸禄をもらうだけでなく、朝廷から耕地や豪邸を与えられていた。研究によると、軑侯の財産は数億元にも達し、ここでは、副葬品リストである「遣策」の記録や出土した文物に基づいて、当時の貴族の生活や風俗を簡単に紹介しよう。
まずは居住。一号墓の「井」の字形の木造椁室の副葬品から、当時の貴族の居室やそこで使われていた用具の概略をうかがうことができる。墓室の北側にある部屋は、大きく、広々としている。周囲にはきれいな絹織物をカーテンとして張り巡らし、床には絨毯のような竹のむしろが敷かれている。両側に華麗な彩色の屏風や精緻な絵が描かれた漆のテーブル、高級な刺繍の枕や服飾、そして侍者の俑(人形)が一列に並んでいる。これは墓の主の母屋と居間の飾りつけだったと考えられる。
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1号墓から出土した雲紋の漆の酒器 | 1号墓出土の「九子奩」 |
また北の部屋には、彩陶の香炉や扇子がある。 長沙の夏はとても暑いが、ここには細長い竹で編んだ扇子が二つある。小さいのはおそらく軑侯夫人自身が使っていたものだろう。長さ1.76メートルの大きな団扇は、侍女が主人のために煽いで風を送ったものだ。
椁室の東の部屋には、60の木製の俑や大量の漆器、陶器があり、東と南の部屋は、軑侯の執事や奴婢が居住し、働いていたようだ。西の部屋には、物が入った数十個の麻袋や三十数個の竹製の箱があり、ここは墓主の倉庫だったと考えられる。
次は飲食。北の部屋にある漆の食卓には、おかず五皿、吸い物一碗、酒一杯、飯一碗、数串の焼肉、箸一膳が並べられている。漢代では、食事は各自別々にとるのが流行っていたため、これはおそらく軑侯夫人の日常の食事だったと考えられる。
江南地方は米の産地であり、西の部屋にある麻袋には、籼や粳(ともにウルチ米)、もち米が入っていたことから見れば、主食は米だったと考えられる。また、倉庫には麦や黍、粟、大豆、小豆、梨、ヤマモモ、棗、梅などの果物や卵、野菜などがあった。
発掘当時、陶器の壷に入っているヤマモモは紫がかった赤色で、果肉はふっくらとしており、果柄は青々としていた。そこで思わず食べてみた人がいたが、2000年前のヤマモモはすでに酸っぱさも甘みもなかった。 また、漆の鼎から水に浸された薄切れの蓮根が発見され、乳白色で穴もくっきり開いていた。それを車で博物館へ運んだが、振動や空気との接触の時間が長すぎたため、思いがけないことに、蓮根は水に溶けてしまった。地震研究の専門家はそれに基づいて、長沙は2000年間、大地震がなかったと推定した。 軑侯家は美食を重視していた。一号墓と三号墓から出土したメニューは百品くらいあり、当時の調理法は炙り、あんかけ、煮詰め、蒸し、炒めなどの十種類ある。
軑侯夫人のお気に入りの焼肉は、鶏の丸焼き、鹿肉焼き、豚肉焼き、牛肉焼き、部厚い牛肉の焼き物などだった。
調味料では、塩、味噌、豆豉(大豆を煮てから発酵させたもの)、砂糖のほかに、麹、蜂蜜、韮、梅、陳皮(乾かした蜜柑の皮)、山椒、茱萸(ミカン科の木の果実)などがあり、色も味も豊かだ。
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湖南省博物館 |
日用の雑貨はさらに多く、ここでは化粧品だけを取り上げてみよう。
一号墓からは嫁入り道具を入れた漆の箱が二つ出土した。一つは「九子奩」といい、上下二段に分けられており、上の一段は三対の手袋や銅の鏡などが入れてあった。下の段には九つの小箱があって、それぞれ頬紅やさまざまな化粧品、おしろいたたき、櫛、すき櫛、糸や針を入れる袋、かつらが入っている。当時、軑侯夫人は、化粧するのが大好きだったに違いない。 馬王堆からは、琴や瑟、竽(笙の大きなもの)、笛などの実物、鐘、磬、鈴などの明器(死者とともに埋葬した器物)のほか、歌い手や踊り手の俑も多く出土した。これは軑侯家の、音楽や舞踏を楽しむ暮らしを彷彿とさせる。
そのなかの一つに、地にひざまずいている女の歌い手の俑がある。その鼻は高く、赤くて切れ長の目をし、頬に白粉が施され、美しい眉をしている。赤い唇はかすかに開いており、歌っているように見える。1995年にオランダのアムステルダムで馬王堆文物展が開催されたとき、この女人俑は「東方のヴィーナス」と称えられた。