漢俳よもやま話(2) 柳緑花紅
劉徳有=文
劉徳有(Liu Deyou) 1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。 1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳・編集に携わる。 1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。 1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者・首席記者として日本に15年滞在。 1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。 著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。 |
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タイトルにある「柳緑花紅」を語る前に、まず背景から―― 確か1995 年の春と記憶しているが、今は亡き日本文学研究者の李芒氏から、青森県八戸の俳句の団体「たかんな」の方が北京にみえて、俳句と漢俳の交流について座談会を開くので出席するようにとのお誘いをいただいた。 「たかんな」――この言葉に接したとき、恥ずかしながら浅学非才の私にはその意味が分からなかった。早速辞書を引いてみると、「たかんな」とは、「筍(たけのこ)」の古語であることを知り、また、座談会で主宰の藤木倶子(ともこ)さんの講演を聞いて月刊『たかんな』の誌名の由来も知ることができた。 俳句の世界では、師系を特に重んじるようである。藤木さんは講演の中で、直接の師、小林康治先生と村上しゅら先生のことに触れられ、そして両先生の師である石田波郷先生が小林先生の句「たかんなの光りて竹となりにけり」を称賛されたこと、小林先生自身もまた「これは私の生涯の句風を決定した一句」であると言われたことなどについて参会者に語られた。 「康治の弟子であります私が、康治亡き後、新しい俳誌を創刊する決意をしましたときに、ためらわず『たかんな』と誌名を決めましたのも、この句の故でございます」 藤木さんがそう語ったのを今でもはっきり覚えている。 「たかんなの光りて竹となりにけり」 この句は、私にはとても新鮮に感じられた。中国人の私は、俳句はよく分からないが、地下から地上に姿を現した筍(たかんな)の「光りて竹となりにけり」という表現が大変奇抜で、それでいて言い得て妙だと思った。 竹に対する中国人の感情もまた格別である。竹は松、梅と並んで「歳寒の三友」と呼ばれ、どんな寒さにもめげない強い性格を持っているとされ、特に愛されている。また竹に節があることから、節操の象徴として貴ばれ、俗離れしているとも見られている。史書によると、晋の書聖王羲之の子、王徽之が空き家の周りに竹を植えたところ、理由を聞かれ、竹を指さして、「何ぞ一日も此君(しくん)無かるべけん」と言ったそうだ。そんなわけで、「此君」は後に竹の異名となった。蘇東坡も「食事には肉が無くてもよいが、住まいには竹が無くてはならない」、なぜなら「竹無くんば、人を俗ならしめる」からだと言っている。 主宰の藤木倶子さんが「たかんな」を誌名に決められたのはさすがだと思った。『たかんな』はすでに二十数年経ち、今では「光りて竹になりけり」の句のように大きく成長し、“竹林”を形成するに至ったことは喜ばしい。藤木倶子さんの句集のタイトルが『竹窗』『栽竹』となっていることも、まさにそのことを象徴しているように思われる。 さて、北京の集いで漢俳と俳句についての披講、交流を終えた後、宴会の席で藤木さんの隣に席を与えられ、たまたま四川省重慶近くにある大足(だいそく)の摩崖石窟が話題になった。藤木さんもそこを訪問されたことを知り、失礼ながらお顔を拝見して、かつて大足の石窟で見た容姿端麗な普賢菩薩(ふげんぼさつ)像を思い出し、旧作の漢俳を書き写して藤木さんにお見せした。
摩崖展麗姿, 摩崖に麗しき姿を展(つら)ね 人賛"東方維納斯", 人々は賛(たた)えぬ「東方のヴィーナス」と 普賢知不知? 普賢よ 知るや知らずや
藤木さんは即座に、 あひまみえ柳緑花紅鮮(あら)たなり 「中国の友人と相まみえて、柳の緑も桃の花の紅も、より新鮮に目に映った」という喜びと中国人民への友好の気持ちを詠まれた句を、その場で書いて私にくださった。 その後『たかんな』誌に発表される際、藤木さんはさらに推敲(すいこう)を重ねられ、 まみえたり柳緑花紅あざやかに と改められた。藤木さんの改作によって、この句の主旨がいっそう際立ち、感慨深いものとなったことは言うまでもない。 平成23年4 月号の『たかんな』誌に、副主宰の吉田千嘉子氏が一文を寄せ、次のように論じている。「『まみえたり』と上五で言い切ることにより、交流会の感激が伝わってくる。『柳緑花紅』とは春の美しい景色のこと。その通りに中国は春爛漫(らんまん)といった風情で、桃、杏、桐などが咲き揃(そろ)い感動の出会いに大きな花を添えていた。率直な、それでいて詩情溢あふれる挨あいさつ拶句である」 私の浅い理解だが、初五の「まみえたり」はここでは切れているようで切れておらず、そのすぐ後ろに続く中七および下五と深く結び付いており、また下五の「あざやかに」も一見「柳緑花紅」だけを修飾しているようで、実はあのときの集い――「まみえたり」の持つ重要な意義を特に強調されているように思われた。 言い換えれば、あのときの集いによって、俳人としての藤木さんの目に映った北京の春は、ひときわ鮮やかなものになった。いや、それのみならず、両国詩人の集いと交流そのものも麗しい北京の春にいっそう彩いろどりを添える鮮やかなものであったと理解していいのではないだろうか。 「あひまみえ柳緑花紅鮮たなり」から「まみえたり柳緑花紅あざやかに」へと変わっていったプロセスには、推敲を重ねた藤木さんの苦心の跡が見られる。 この句をいただいてから、蛇足と知りながらも、一応漢俳に直してみた。
俳友喜相逢, 句友(とも)ら あいまみえ 迎春柳緑伴桃紅, 春を迎えて 柳は緑に 桃花は紅くれない 鮮艶意無窮。 鮮やかにして 艶(なま)めく 意は尽きず
間延びがして、藤木さん原作の俳句に遠く及ばず、というところか
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