People's China
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捉迷藏

かくれんぼ

 

 有一些古老的游戏在城市里悄然而逝了。而在辽远的山乡,它依旧带着质朴的气息,被乡间的孩童接受和使用。捉迷藏,可以称得上是蒙着阴翳之美的游戏。暮色下来了,草垛、灌木、篱笆、瓜棚,都可以形成目击的障碍,作为躲藏的居所。在昏黄逐渐递进的浓浓夜色里,寻找的难度随着目力的下降而增大。月亮从东山渐渐浮起,影像恍惚迷蒙———如果他不可能找到一个藏匿者来替代他,就只能无休止地寻找下去。

いくつかの古風な遊びが都市の中からひそかに姿を消している。しかし、はるか遠くの山里には、いまだ素朴な気風が残り、田舎の子どもたちはその遊びを受け入れ、使っている。かくれんぼは、陰影の美に包まれた遊びであると言えるだろう。夕暮れの迫る中で、わらにお、低木、まがき、瓜棚、全てが発見の障害となり、隠れ場所となる。たそがれが暗闇に変わりゆく中で、探す難しさも視力の低下によって大きくなる。月が東の山から次第に昇って来ると、姿がぼんやりとしてはっきり見えなくなる。――もし隠れている誰かを見つけ、交替させることができなければ、ひたすら探し続けるしかない。

 

 找一个人真的不容易。

人一人を探し出すのは本当に難しい。

 

 这个游戏培养了儿童时代的听觉、视觉,还有勤快奔跑的腿脚。总是会在紧张的搜寻中,声东击西或制造假象,于是那些露出破绽或经验不足者,在一阵激动的大呼小叫中,终于落网。

この遊びによって、子ども時代の聴覚、視覚、さらに速く駆ける足が鍛えられる。張りつめた捜索の中で、人の虚をついたり罠にはめたりして、馬脚を見せるあるいは経験不足の者は、興奮した大小の叫び声の中で、最後には捕まってしまう。

 

 这个儿童时代的游戏,并不因为儿童时代已过而消失。好些年过去,我见到乡村的一些可以遮蔽人的物体,诸如篱笆、草垛,仍然有一种肌肤上的亲切感。自然界天然的体温,融在这些很普通的草木身上,如此舒坦,不觉睡去。成年人不再有这种游戏的快乐和刺激了,但是并不能说明他们已经完全脱离了这个游戏所带来的哲学意味——在更为广阔的空间里,每一个人都在寻找他人,或者,被人寻找。

この子ども時代の遊びは、子ども時代が過ぎ去ったために消えたのではない。幾年が過ぎても、私は目にする田舎の人を隠してくれるもの、例えばまがきとか、わらにおとかに、いまだ皮膚の上での親近感を感じる。自然界の天然の温もりは、極めて普通の草木に溶け込んでいて、とても心地よく、思わず眠りを誘われる。大人はもはやこうしたゲームに楽しさや刺激を感じないが、それは彼らがすでにこの遊びがもたらす哲学的意味から完全に抜け出しているからではない。――より広い空間の中で、誰もが他人を探し、探されているのである。

 

 为什么要藏匿起来,让人不知去向,这里面肯定是有玄机的。当婴儿从黑暗中滑出,见到世上第一缕阳光,他就注定要在光亮中生存。他再一次沉入黑暗,一般地说,是生命终结之时。夜间照明的灯,从昏黄如豆到绚丽多彩,是人类延续光明的一种渴望。它同时也反证着,有意藏匿一定是在避免某些接踵而至的寻找,它们使人繁缛或者危险。

なぜ隠れて、人に居場所を知らせないか。この中にはきっと深遠な哲理があるに違いない。赤ん坊は闇から滑り出て来て、世の中の初めての陽光を見、光の中で生きてゆくことを運命づけられる。人が再び闇の中に沈むのは、普通、生命が終わる時である。夜を照らす明かりは、薄暗い小さなものから、きらびやかで多彩なものまで、ずっと人類が光を継続して得たいという一種の渇望だった。それは同時に、故意に隠されるものは必ず引きも切らない捜索から逃れ、それが人を煩わせる、あるいは危険に陥らせるということを反証しているのである。

 

节选自朱以撒散文《藏匿》

朱以撒のエッセイ『隠れる』より一部抜粋

 

 

◆翻訳にあたって◆  

 

 

朱以撒は1953年泉州生まれ。現在、福建師範大学美術学院の教授で、画家・書道家・作家として、多岐にわたって活躍する。“捉迷藏”はかくれんぼや鬼ごっこのことで、遊び方は日本とほぼ同じ。“摸瞎子”“躲猫猫”などという言い方もある。(福井ゆり子)

 

 

 

 

 

人民中国インターネット版  2017年7月

 

 

 

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