最初は17のハウスから
寿光市が連続12回の野菜博覧会を開催し、「中国寿光」の名を世界に馳せている今日の名誉は、「冬暖式大型ハウス」の発祥地――三元朱村と深い関係がある。
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三元朱村の野菜栽培は、こうした冬暖式大型ハウスで行われる | 「寿光でいちばんのお金持ちといったら、三元朱村の野菜農家ですよ。マイカーはBMWやベンツです。私たちサラリーマンよりずっと豊かなんです」と案内に立ってくれた王萍さん。
ほんとうだろうか。信じられない思いで、私たちは車を20分ほど走らせ、寿光市の最南端に位置する三元朱村を訪れた。
村に近づくと道の両側の広告看板に「楽義野菜」「楽義キュウリ」「楽義ハウス鉄骨」といった商品に「楽義」の2字を冠した商標が多く見られるようになった。王萍さんが「『楽義』は三元朱村の党支部書記、王楽義さんの名前です。王楽義さんが、村でいちばん早く冬暖式大型ハウスを建てて野菜栽培を始めたのです」と教えてくれた。
私たちは三元朱村に着くと、通りの近くの大きなハウスに入ってみた。主人の王万凱さんは56歳。奥さんとニガウリ(ゴーヤ)の受粉作業の最中だった。
「ニガウリは世話がそれほどたいへんではありません。毎朝2時間ほどで受粉作業は終わります。キュウリだと、そうはいかず、世話がほんとうに大変なんですよ」と王さん。
王さんは1990年から大型ハウスでの野菜栽培を始め、主にキュウリとニガウリを手がけてきた。長さ80メートルのこのハウスから年に8万元の純益が上がるという。作柄がいい年には10万元の収益になることも。「穀物だけ栽培していた昔は、ムー(1ムーは666.7平方㍍)あたりせいぜい千元の収入でした」と王さん。王さんはこの大型ハウス一カ所だけで野菜を栽培しており、いつもは奥さんと下の息子さんが野菜の世話にあたる。長男は独立してすでに一家を構えている。
王さんは一年の大部分は農業技術員として中国の各地を忙しく駆け回る生活を送る。これまでに新疆ウイグル自治区、内蒙古自治区、青海省、北京市などで野菜栽培の実地指導にあたってきた。2002年に新疆で指導した時の1カ月の報酬は2000元だったそうだが、今では、3倍の6000元が支払われるという。「私どもの三元朱村では、農民の誰もが農業技術員なのです」と王さんは胸を張った。
こうした三元朱村のすべてが、王楽義書記が推し進めた野菜の大型ハウス栽培に端を発していたのだ。1989年、王書記は遠路はるばる遼寧省に出向き、当時開発されたばかりの冬暖式大型温室を使った野菜のハウス栽培技術を地元の農民から学んだ。この技術によると、冬でも石炭をたく必要がなく、冬季にキュウリの栽培ができる。それまで「中国北方では冬に新鮮な野菜が途絶えてしまう」のは常識だったが、この常識が覆ったのだ。故郷に戻ると、王書記はその年中に16人の党員を率いて17の冬暖式大型ハウスを建て、キュウリの栽培を始めた。
この17のハウスから始まって、寿光は一歩また一歩と野菜栽培の特色ある道を歩み続け、今日「中国最大の野菜基地」として世界中に知られるようになったのだ。
栽培規模が拡大するにつれ、王楽義書記を始めとする寿光の野菜栽培農家は村内に野菜を専門に加工する会社と販売する会社を設立しただけでなく、「楽義」の商標を登録した。そして「会社は基地と結びつき、基地が農家を引っ張る」という発展モデルを打ち立て、統一して管理し、買い上げ、そして販売する中で、検査に合格した野菜にだけ「楽義」の商標を使うことを認めることにした。こうして農民たちの責任感が高まり、野菜の質が保証されて、結果、収益がいっそう上がることになった。
やがて周囲の村も次々と加入し、今では無公害野菜基地は3.3平方キロに、有機栽培・エコ型・無土壌栽培のファームは1.3平方キロにまで広がり、すべての生産品がAクラスないしはAAクラスの基準をクリアし、日本、韓国、ロシアなどの外国にも多く輸出されている。「楽義」の商標は世界のブランドになったのだ。
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