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湖北省仙桃市幼児体操学校 写真・文 郭実
李さんたちにとって、故郷と言えば忘れられないのが、彼らを世界覇者へと育ててくれた仙桃市幼児体操学校である。金メダリストたちの「揺りかご」である同校を訪ね、優れた人材養成の秘訣(ひけつ)について取材した。 ブタ小屋からの出発 湖北省の東南部に位置する小都市・仙桃市は人口約30万人。ここに住む人々は一般的に中背で、均整のとれた体つきだ。また才気にあふれ、『三国志』の舞台となった歴史的な背景からも、武術を好む人が多いという。 「文化大革命」の頃、中学校の体育教師・丁霞鵬さんは、生徒たちに現代京劇の立ちまわりを教えるため、とんぼ返りやジャンプなどを指導した。丁さんは72年、学校に隣接した不用となったブタ小屋を改装し、地元では初の体操教室を開いた(当時・べん陽県)。ブタ小屋はかなり広くブタの糞やわらも残っていたので、丁さんはそれをマットとして活用、生徒たちも日々練習に励んだ。その後、訓練場は仙桃市を流れる漢江の砂辺などに移転した。べん陽中学校の食堂に間借りした時には、ようやくまともなマットを入手した。それが仙桃市幼児体操学校の前身である。 75年、丁さんが自分のチームを率いて湖北少年児童体操大会に出場した時のことだ。正式な参加資格がなかった彼らには、宿泊所も試合前の練習場も与えられなかった。たいそう悔しい思いをした丁さんはこの時、優れた選手を自ら輩出しようと、固く決心したのである。 80年代に入ると、学校はより年の小さな子どもを選んで練習をさせたが、その中に、十数年後の世界チャンピオンになる李小双さん、李大双さん兄弟がいた。粗末な環境は変わらなかったが、仙桃市各界からは多大な支援が贈られた。手作りのつり輪や平行棒を設置してくれた造船工場の労働者たち。物資や金銭面での提供を惜しまなかった地元企業……。進んでわが子を訓練させた県長もいた。 学校が湖北省や国の体操チームに送った選手たちは、92年五輪までに国内外の試合で百枚近くのメダルを獲得した。校名も広く知れ渡った。メダリストのタマゴを養成するため、コーチ陣も懸命に教育に励んだ。ただ、残念なことに丁さんは九二年の初めに亡くなり、弟子の李小双さんの活躍をその目で見ることはできなかった。 コーチ陣の厳しい愛
丁霞鵬さんは、かつて李小双さん、李大双さん兄弟のコーチだった。李兄弟は家が貧しいばかりに、冬でも厚手のトレーニング・ウエアが買えなかった。かといって厚い綿入れでは体操ができないし、薄手の上着では風邪をひいてしまう。丁さん自身もけっして豊かではなかったが、自分のものを作り直して兄弟に与えた。自宅でごちそうを作れば、そのつど兄弟を招いて栄養面にも気を配った。 校長の顔永平さんは、シドニー五輪チャンピオン・鄭李輝さんの元コーチ。物事には「命懸け」で取り組む仕事熱心な人だ。彼は、湖北省体育委員会から贈られた平均台を受け取りに、武漢市まで行ったことがある。平均台は隣町の武昌に置かれており、仙桃市までの長距離バスは、そこから3キロ離れた漢陽から出ていた。顔さんは平均台をタクシーに乗せ、バスターミナルまで運ぶのはかなりの浪費だと思った。しかし、平均台は長くて人力車では運べないし、長江大橋も渡れない。そこで猛暑の中にもかかわらず、重さ百キロ以上もの平均台を担いでバスターミナルまで運び、長距離バスに乗せたのだった。 彭友平コーチは、幼い頃から特訓を重ね、全国や省レベルの試合で金、銀メダルを獲得した人だが、国家チームにはなぜか無縁だった。そこでコーチになってからは「必ず世界一の選手を育てよう」と心に決めた。八五年に某小学校の予備班で生徒を募集した時、最後列に座った楊威さんを目にとめた。楊威さんの足はX脚で体操に向かないと言う人もいたが、彭コーチは構わず彼の長所を生かした訓練メニューを打ち出した。数年後、楊威さんは著しい進歩をとげ、92年の全国少年児童体操大会では六種目で優勝。シドニー五輪では、中国の体操男子団体の一人として金メダルを、さらに個人総合でも銀メダルを獲得したのである。
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