1977年8月12日から18日まで北京で開催された。出席した代表は1510人、全国の3500万人以上の党員を代表していた。
大会は「四人組」との闘争を総括し、「文化大革命」の収束を宣言した。そして今世紀中に、我が国を社会主義の近代的な強国にすることが、新たな時期における党の根本的任務であることを重ねて表明した。
しかし、当時の歴史的条件の制約と華国鋒の誤った影響のため、大会は「文化大革命」の誤った理論や政策、スローガンを是正することができず、かえってこれらを肯定した。
大会は新しい中央委員会を選挙し、一中全会で華国鋒を党主席に選出した。
三中全会は、1978年12月18日から22日まで北京で開かれた。会議の中心議題は、全党の活動の重点を社会主義近代化建設へ転換することであった。会議は党の正しい思想路線を再確認し、「二つのすべて」の誤った方針を批判し、毛沢東思想の科学的な体系を、完璧に、かつ正確に掌握し、運用する必要性を十分に認め、「真理の基準」に関する問題の討論を高く評価して、思想を解放し、頭を働かせ、実事求是でものごとを行い、一致団結して前進する指導方針を確定した。
会議は改めて、党の正しい政治の路線を確立し、「階級闘争を要とする」という、社会主義社会に合わないスローガンの使用を果断に停止して、党の11回党大会が踏襲した「文化大革命」中のいわゆる「プロレタリア独裁の下での継続革命」や「文化大革命は今後何度も行わなければならない」などの「左」の誤った観点を否定した。
また会議は、党の正しい組織路線を再び確立し、党の規約、規律や全党の民主集中制を健全化し、個人崇拝を受け入れたり、それを造り出したりすることに反対し、集団指導を強化することを決定した。
会議また、党の歴史上の重大な冤罪と、重要指導者の功罪と是非の問題を審査し、解決した。その中には、1959年の廬山会議で彭徳懐に対して下された、誤った批判や結論、薄一波ら61人の事案、「右からの巻き返し」や天安門事件の誤った文件、および鄧小平の1975年の仕事に対する評価に関することが含まれていた。
会議は、国民経済の重大なアンバランスを解決することに注意を払うよう要求するよう提起し、農業の発展を加速させることを決定し、『農業の発展を加速することに関する若干の問題に関する党中央の決定(草案)』と『農村人民公社工作条例(試行草案)』を省、自治区、直轄市レベルで討論、試行することに同意した。農業を発展させるためには、まず農村で改革を実行し、生産量に連動した責任制を推進しなければならないと決定した。
これらの大きな意義を持つ転換は、党が再びマルクス主義の思想路線、政治路線、組織路線を確立し、鄧小平を核心とする第二世代の中央指導グループが形成され始めたことを示している。
この会議は、建国以来の党の歴史上、深い意義を持つ偉大な転換であった。それは、中国を発展途上の社会主義の国家から富強で民主的、文明的な社会主義の近代的国家に変えようとする転換であった。
五中全会は1980年2月23日から29日まで、北京で開催された。胡耀邦、趙紫陽を政治局常務委員に選び、党の中央書記処を再建し、胡耀邦を総書記に選んだ。また劉少奇同志の名誉回復を徹底し、彼に関する誤った決議を取り消し、彼の名誉を回復した。さらに汪東興、紀登奎、呉徳、陳錫聯の辞職願を許可して、彼らが担当していた党と国家の指導職務からはずした。また全国人民代表大会に対し、憲法第45条の「公民が大鳴、大放、大弁論、大字報を用いる権利」の規定を取り消すよう提案した。
六中全会は1981年6月27日から29日まで北京で開かれた。会議では、『建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議』が全員一致で通過した。この『歴史決議』は、毛沢東の歴史上の地位と毛沢東思想を肯定し、実事求是で、建国以来の32年間の功罪と是非を評価し、徹底的に「文化大革命」と「プロレタリア独裁の下での継続革命」の理論を否定し、党の指導思想の混乱を鎮め、正常にもどすことを成し遂げた。会議は一致して、華国鋒が党中央主席と中央軍事委員会主席の職務を辞職する願いに同意した |