首都鉄鋼集団の董事長(理事長)である朱継民は、中国の鉄鋼業界では難題攻略に長けた人物として知られている。
1970年、朱継民は東北工学院(現在の東北大学)を卒業し、鞍山鉄鋼集団(現在の鞍本鉄鋼集団)に勤めた。20年あまりかかって、一介の技術員から総経理補佐役にまで登りつめた。
1997年、朱継民は冶金部(当時)から貴州の水城鉄鋼集団の総経理として派遣された。一見悪くない地位のようであるが、実際になってみると山ほど問題を抱えた大変な職務であった。当時の水城鉄鋼は年間二億九千万元の赤字を抱える貴州省で一番の赤字企業であった。資産負債率が95・1%にものぼり、崩壊寸前であった。この挑戦を引き受けた彼は、取るものも取りあえず貴州に駆けつけた。総経理とはいえ、自転車通勤の毎日が始まった。彼は管理制度、人事制度、給料制度における思い切った改革を行ない、機構を簡素化した。その結果、わずか16カ月で水城鉄鋼を苦境から救い出した。
企業の利益が上がったことで生活が向上した水城鉄鋼の従業員たちの朱継民への思いは深い。彼が転任すると聞いて、従業員全員が毎月の給料から一人当たり四元を出して彼の給料を増やすことで引き止めようと提案する従業員さえあった。
1999年、朱継民は異動の辞令を受け、首都鉄鋼集団の副総経理となる。後には総経理、董事長を歴任する。当時の首都鉄鋼は、もっとも困難な時期であった。活路を求め、このうえなく苦難に満ちた戦略を模索するという過程を、彼は首都鉄鋼とともに歩んできた。やがて彼は思い切って北京を出て発展をめざすという策を打ち出す。2003年、河北省遷安市で製鉄プロジェクトが始動、その後2005年2月には、首都鉄鋼の河北省唐山市曹妃甸工業区への移転が国から承認された。
朱継民は優れた業績で、全国「五一」労働表彰メダル、全国優秀創業企業家等の称号を獲得、さらに第10回全国人民代表大会及び中国共産党第17回全国代表大会の代表に選ばれた。
現在、首都鉄鋼の移転は肝心かつ困難な時期にある。さまざまな雑事が入り乱れ、困難は幾重にも重なり合っている。しかし、彼は首都鉄鋼の未来にゆるぎない自信を持っている。「2010年、移転と調整の完成した首都鉄鋼は、これまでとはまったく違う新たな姿で、世間をあっといわせてみせます」(文・高原 写真・首都鉄鋼)
人民中国インターネット版 2007/10/18 |