遊びよもやま話(上) 緑 楊 今時の子どもたちはみんな栄養たっぷりの食事をとって、きれいな洋服を着ている。おもちゃの種類だって、私たちが子どものころとは比べものにならないくらい豊富だ。なのに彼らは、当時の私たちほど楽しそうではない。彼らの背負ったランドセルには山ほどの宿題と親の期待が詰まっていて、ずっしりと重いのだろう。勉強する時間が長すぎて、ろくに遊ぶこともできない。過熱する受験勉強に歯止めをかけようと、中国教育部は近年、子どもたちの負担を減らすよう指導しつづけてきた。その結果、子どもが遊べる時間が増えてきたのだが、今度は子どもも親も新しい問題に直面し、はたと困ってしまった。「さて、どうやって遊んだらいいんだろう?」と。 今の世の中、数え切れないくらいの娯楽がある。遊園地のジェットコースター、ゲームセンター、家庭用のパソコンゲームなどなど、よりどりみどりだ。しかし、これらの娯楽はちょっと「高級」過ぎて、子どもの天性には合わない面があるような気がする。毎日遊園地に行くわけにもいかないし、ゲームマシンにはギャンブル性がついてまわる。パソコンゲームの仮想世界は人をとりこにし、そこから抜け出ることができなくなってしまう。そう考えるとき、私は自分が子どもの頃に夢中になった遊び、単純ながらも味わい深かった遊びを思い出さずにはいられない。 竹 馬
40代以上の中国人なら、ほとんどの人が幼い頃、「竹馬」に乗った記憶があるはずだ。馬に見立てた竹竿に跨って走り回るだけなのだが、子どもの想像力というのは大したもので、本当に馬に乗っている気になったから不思議だ。胸を張って辺りを睥睨すれば、将軍になったような気分だって味わえた。騎士が戦場を縦横無尽に駆け回っている場面を想像しながら、声を張り上げて走り回ったものだ。さらに刀や銃、棒などを手にすれば、気分はすっかり戦場の勇士である。あるいは、竹馬を操って軽やかに踊れば、まるで馬術ショーの花形スターになったような気にもなった。 唐の詩人李白(701〜762)はその有名な詩「長干行」の中で、子どもたちが一緒に竹馬に乗ったり青梅の実で遊ぶ情景を、女の子の視点から描いた。ここから、幼なじみの代名詞として「竹馬の友」という言葉が使われるようになった。ここで竹竿は単なるおもちゃではなく、「幼年期」あるいは「友人」に結びつく象徴的な意味を持つようになり、中国文化の中で永遠の命を持つようになった。 竹馬乗りは2000年前、漢の時代にはすでに子どもたちの人気の遊びだったようだ。『後漢書・郭汲伝』には、竹馬に関する記載が見られる。郭汲は並州(現在の山西省太原市)で官職にあった時代、その有能さ、清廉潔白さで、人々から敬愛された人物だ。ある日、彼が管内の美稷県を訪れた際、数百人の子どもが竹馬に乗って出迎えたと記されている。ここから、竹馬の歴史が少なくとも後漢にまでさかのぼれることが分かる。美稷県は現在でいう内蒙古の草原にあった県で、その民は乗馬に長けていることで知られていた。草原において馬は主要な交通手段であり、戦争が起きれば騎兵部隊は極めて重要な役割を果たした。かの地では、大人が馬に乗る様子を、子どもたちが好んで真似していたのは想像に難くない。つまり、竹馬は遊牧民族の生活習慣や風俗が子どもの遊びに反映されたものだといえるだろう。 竹馬乗りが広まったのは李白の時代で、彼以後の詩人の作品の中には竹馬を詠んだ詩句が多く見られる。9、10世紀頃から竹馬の構造はすこしずつ複雑になり、竹や紙で作られた「馬の頭」が竹竿の先に付け加えられるようになった。宋代の磁器枕に、子どもが竹馬に乗っている図案を描いたものがある。子どもは片手で鞭を振るい、もう一方の手で竹馬を操っており、その先端には本物の馬そっくりの頭がついている。 14世紀になると、さらに手の込んだ竹馬が登場する。先端に頭がついているのはもちろん、後ろの端に交差するように別の竹竿がくくりつけられ、その両端に輪がついている。ちょうど小型の車のようなものだ。明代に墨づくりの大家として知れれた方于魯の作品『九子墨』にもこうした竹馬で遊ぶ子どもの姿が描かれている。 17世紀頃には、頭の部分にロウソクを置き、灯籠のようにした竹馬も誕生した。お正月やお祭りの時、子どもたちはこれに跨って夜道に繰り出した。赤々と輝く竹馬に乗る子どもたちが、どれほど嬉しく、誇らしかったことか。きっと皆さんにも想像がつくことだろう。 ひとは大人になっても、どこかに子どもらしさを残しているものだ。大人たちは子どもに竹馬を作って遊ばせるだけでは満足できず、それを芸術に高め、自分たちも楽しもうとした。13世紀に書かれた『武林旧事』の『舞隊』の巻には、「男女の竹馬」という項がある。そこには、当時の大人たちが子どもの遊びを舞踊の中に取り込み、竹馬に乗る楽しさを味わっていた様子が描かれている。 伝統の戯曲にも竹馬は登場する。13世紀後の元代の演劇には「竹馬児」「番竹馬」などという曲牌(定型化された曲調の名前)があったし、戦いをテーマにした劇の脚本には「竹馬に乗って登場」というト書きがよく見られる。しかし、舞台の上で竹馬に乗るのは何かと不都合が多かったようだ。乗馬の表現は歴代の芸人の工夫や改造によって洗練され、現在の舞台では竹馬は用いず、代わりに一本の鞭によって馬に乗ったり、疾走する動きを表現し、まるでそこに馬がいるかのように見せている。 17世紀頃には、中国の南方で「竹馬の灯籠」が流行した。お正月やお祭りの日には、灯籠付きの竹馬に跨った農民たちがドラや太鼓の音楽に合わせて踊り歌った。北方にもこれに良く似た風俗があった。今でも北方の寺社の縁日や地区のお祭りの日には、こうした踊りを見ることができる。皮や布で作ったロバの頭を体の前に、体の後ろにはロバの尻をつけて踊る様子は、何とも言えずユーモラスで素朴な美しさがある。この踊りなどは、そのルーツに竹馬があると考えて間違いなさそうである。 このほか馬に関する遊びとしては、「騎馬戦」があった。年上の子どもが馬になり、小さい子どもを背負って相手と戦うもので、相手を「馬」から引きずり落とした方が勝ち。もっと単純な遊びとしては、双方が片足を上げ、両手を組んで押したり引っぱったりし、バランスを崩して倒れたり、両足をついた方が負けというものもあった。こうした遊びには竹馬は使われていないが、その楽しさは竹馬乗りと比べてもまったく遜色がなかった。 弾 弓(パチンコ) 中国には「蟷螂、蝉を捕す」という寓話がある。セミ(蝉)がカマキリ(蟷螂)に狙われているのも知らず、木の枝で歌っている。しかし、セミを捉まえようとしているカマキリは、その背中を雀がじっと見つめていることに気がついていない。雀もまた、木の下で子供が弾弓(ぱちんこ)で自分を狙っていることを知らないでいる。
この寓話は前漢の劉向(前77〜前6)が編纂した『説苑』に載っているもので、目先の利に目がくらんで災いが近づいているのに気がつかないことの喩えとしてよく引き合いに出される。子どもが遊びの道具としてぱちんこを使っていたという記述が文字史料の中に現れるのはこの寓話が最初だが、ここからこの玩具が少なくとも2000年以上もの歴史を持っていることが分かる。 もちろん、ぱちんこが発明されたのは『説苑』が編纂されるずっと前のことだ。今から2500年前の春秋の時代、晋の霊公という暗愚な皇帝は、高台からぱちんこで人間を撃つのを楽しみにしていたという。愚帝の悪ふざけの道具としてぱちんこが史書の中に記録されたわけだが、その歴史はさらに古い時代へと遡るはずだ。5000年以上の昔、原始人は狩猟のためすでに弓を発明していた。この弓に形状も似て、小動物の狩りに適するぱちんこは、それから間もなく発明されたと考えても不自然ではないだろう。 日本の方もよくご存知とは思うが、ぱちんこは「Y」型の枝、或いは「Y」型に曲げた金属にゴムか弾力性のある弦を張り、その真ん中に皮の切れを取り付ける。そして土の球や小さな石を皮切れの中にいれ、標的に向かって弦をはじく。子どもたちはこれで鳥や銅銭などを標的にして遊んだ。二千年の歴史を持つこのおもちゃが子どもたちをとりこにするのは当然だろうが、夢中になりすぎて失敗してしまうこともあった。ぱちんこ合戦をしていて友達にけがをさせてしまったり、あるいは誰かの家の窓ガラスを割ってしまい、親にこっぴとく叱られたり、ぱちんこを没収された経験を持っている人は少なくないはずだ。ぱちんこ遊びには危険がつきものだが、みんながきちんとルールを守ればそんなに心配はいらない。お互い打ち合うような「合戦」はやめ、みんなが同じ標的を狙う「射撃競争」にしておけば、けがをしたり、何かを壊してしまうこともないだろう。 中国のテレビではしばしばダーツの試合を実況中継しているが、私はそのたびに「ぱちんこの試合があれば面白いのに」と、残念に思う。ダーツと比べて、ぱちんこの方が的を狙うのが難しいはずで、ゲームとしての面白さや見応えもあるはずだ。オリンピックの正式種目になっている射撃やアーチェリーと比較しても見劣りしないのではないだろうか。 二千年前に漢の宣帝劉詢は、晩春から初夏にかけては鳥の巣を壊したり、卵を取ったり、鳥を撃ったりすることを禁じる勅を出した。おそらくこれは、世界で最初の「愛鳥宣言」だろう。動物愛護の声が高まっている今、ぱちんこで鳥を狙ったりしたらひんしゅくをかってしまうだろうが、そんな悪さをしないという前提で、どんどん子どもたちにぱちんこ遊びを奨励すればいいのにと思う。 滋水槍(水鉄砲) 私たちが子どもの頃は、みんな水遊びが大好きだった。とくに暑い夏は、プールや川辺で水をかけ合うのが楽しみだった。なかでも一番面白かったのは、なんと言っても滋水槍(水鉄砲)での撃ち合いだ。竹筒で作った銃身に、先端に布切れをくくりつけた細長い棒や箸を押し込む仕組みになっている。バケツから水を吸い上げておき、誰か手頃な標的を見つけて水を噴射させれば、「戦争ごっこ」の始まりだ。勝負に勝てばもちろんすごく嬉しいのだが、不意打ちを食らってびしょ濡れになるのもまた楽しい。涼しさが増すだけで、痛くも痒くもないのがいい。その効果は、雲南省シーサンパンナのダイ族に伝わる水かけ祭りと同じといえるだろう。そこには勝者もいないし敗者もいない。子どもにとっては、つまりお祭りと同じなのだ。
あるおもちゃメーカーが、ピストルそっくりの水鉄砲を作ったことがあったが、評判は今ひとつだったようだ。水鉄砲には水鉄砲本来の面白みがあるので、本物のピストルの形にしたら逆につまらなくなってしまうのだろう。 水鉄砲というおもちゃが、いつ、誰によって発明されたのかは、古書や史料にも記載が無く、はっきりしていない。おもちゃとしての歴史はそれほど古くないようだが、昔の子どもたちはしょっちゅう水鉄砲で遊んでいたので、伝統の遊びを語る時にはやはり欠かすことができない。しかし、ここ20年ほどの間、中国では水鉄砲を見かけることがまったくなくなってしまった。買おうと思っても、もうどこにも売っていない。今時の子どもたちは、名前さえ聞いたことがないだろう。 ところが先日、思いがけず日本でこのおもちゃと再会することができた。能登半島のお寺の門前で売られているのを見つけたのだ。私が子どものころに遊んだものより一回り大きく、一つ千円ということだった。同行していた中国の若者たちは、いったいそれが何なのか、皆目見当がつかない様子だった。 夏は水鉄砲、冬は雪合戦。当時の子どもたちは季節ごとに違う遊びを考え、趣向の違った「戦争ごっこ」を楽しんだ。やんちゃ小僧たちは、いろんな楽しみの味わい方をきちんと心得ていたのだ。 |