杜甫は「兵車行」を詠んだ翌年「麗人行」を詠んでいます。
同じ新楽府題ではありますが内容はまったく違います。「兵車行」が出征兵士の悲しみを詠っているのに対して、「麗人行」は楊貴妃一門の人々の豪華絢爛な遊興の世界を歌っているのです。これは、杜甫が時代の中で現れ始めていく矛盾を鋭くつこうとしたからだと思えるのです。「兵車行」の悲惨な人民の姿によって「麗人行」の華麗な世界は作られているのだと言いたかったのではないでしょうか。
これから読む「麗人行」の世界が美しければ美しいほど、「兵車行」との違いが際立ち、杜甫の批判的精神は発揮されているのです。中途半端に美しさを表現しなかったところに、杜甫の内に秘めた思いが深かったことを感じさせます。
麗人行 杜 甫
三月三日天気新、
三月三日 天気新たなり、
長安水辺多麗人。
長安水辺 麗人多し。
態濃意遠淑且真、
態は濃かに意は遠くして 淑且 つ真、
肌理細膩骨肉ヤネ。
肌理は細膩にして 骨肉はヤネし。
繍羅衣裳照暮春、
繍羅の衣裳は 暮春を照らし、
蹙金孔雀銀麒麟。
蹙金の孔雀 銀の麒麟。
頭上何所有、
頭上には何の有る所ぞ、
翠微 葉垂鬢唇。
翠は 葉に微にして 鬢唇に垂る。
背後何所見、
背後には何の見る所ぞ、
珠圧腰 穏称身。
珠は腰 を圧して 穏かに身に称う。
【通釈】
三月三日(上巳の節句)空は澄み渡り、
長安の曲江の水辺には、多くの美女が遊んでいる。
その姿は艶やかでその気品はしとやかで本当の美しさがあり、
肌はきめ細かく潤いがあって、均整のとれた姿である。
刺繍をした美しいうすぎぬの衣装は、晩春の光の中で照り映え、
黄金のより糸で孔雀の模様、銀の糸で麒麟の模様が縫い込まれている。
頭にいただくものは、
翡翠を木の葉の形にした髪飾りで、鬢の毛のあたりに垂れ下がる。
後ろ姿に見えるものは、
真珠は帯にずっしりと、ほどよく体に調和している。
歌い出しの十句は、曲江に遊ぶ楊貴妃一族の美しい女性達の観察から始まります。上巳の節句の頃から長安は春景色になります。水ぬるむ春に誘われて曲江に遊ぶ麗人への詩語は、全てに美しく賛美の言葉が続きます。
しかし、杜甫はただ美しさに感嘆しているのでしょうか。私は、先に「兵車行」を詠んだ杜甫が兵士の惨めさに対して、彼女達の華麗さに空虚なものを感じていたと思うのです。だからこそ言葉を尽くして美しさを表現しているのではないでしょうか。
詳細な美への探求は、あこがれを通り越しているとは思いませんか。この美しさこそは、庶民の苦痛の上に存在していることを暗に言いたかったのではないかと思われるのです。杜甫の詩的観察眼の鋭さは、弱いものにも強いものにも美しいものにも醜いものにも差別無く切り込んでいるのです。
ですから、私は、この詩を読むと美しすぎるがゆえに、美しさの危うさや、権力の背後にあるものにも考えを及ぼさざるを得なくなるのです。「麗人行」つづく。
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