杜甫を読んでいて忘れてはいけないことがあります。彼の家族愛についてです。特に今回読もうとする「月夜」は、戦乱の中に離ればなれにならなければならなかった妻を思って詠まれたものです。
この頃、杜甫はやっと役職に就き、新たなスタートを切ろうとした時に安禄山の乱が起きます。妻子と同居の生活が出来ずに妻を長安の東北、フ州(現在陝西省富県)に避難させていたのです。自分は、長安に抑留されていました。
この詩は、秋の月の美しい夜、妻を思って作ったに相違ありません。この詩に現れる言葉の美しさは、現実を見ることに長けた杜甫の厳しさよりは、どこまでも澄んだ詩人の目と心が愛しいものを思う優しさにあふれています。
それは、当時杜甫が長安で苦難に遭っているにもかかわらず、歌い出しから心を 州に置いていることからもわかります。心を妻の居る 州に置くことで今夜の月は、天を同じくして異域に降り注ぐ月明かりがこの夫婦を美しく照らし出していると思うのです。
月夜 杜甫
今夜フ州月、閨中只独看。
今夜 フ州の月、
閨中 只独り看る。
遥憐小児女、未解憶長安。
遥かに憐れむ 小児女の、
未だ長安を憶うを解せざるを。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
香霧 雲鬟湿い、
清輝 玉臂寒し。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。
何れの時か 虚幌に倚り、
双び照らされて 涙痕乾かん。
【通釈】
今夜 州に出る月を、妻は部屋の中からただ一人で見ていることだろう。
私が遠く思いやるのは幼い息子や娘達、まだ長安の父を気遣うことさえ知らない。
香しい夜の霧に、妻の美しい髪はしっとり濡れ、清らかな月の光に、玉のような妻の腕は冷たい。
何時になったら、部屋のカーテンに寄り添って、二人そろって、月の光に照らされながら、再会の涙の痕を乾かすことが出来るであろうか。
杜甫はこの頃、少し後になると思うのですが、あの「春望」を詠みます。当時の騒然とした世情の中で花に涙し、鳥に心を驚かす杜甫は、遙かに離れた家族を思いやります。
「妻は独りできっとこの月を見ているに違いない、子供達は、私のことを気遣うことも知らないのに。だからこそ、妻は部屋の中から私を思って月を見ているに違いないのだ」
この前半に、離れていても互いに思い合う夫婦の姿が見えるのです。妻の思いが深いのは、子供達が無邪気で母の心配が解らないからなおさら際立つの
ナす。
夫に対する妻の思いの深さが「双照涙痕乾」に結びつきます。そんな妻を思うのです、「香霧 雲鬟湿い、清輝 玉臂寒し」この美しさはどうでしょう。この句を読むとただ美しい表現だけでなく、冷えた妻の美しい腕をそっと抱きしめてやりたいと、杜甫が言っているように思えます。
40前後の妻にこの詩句は、美化しすぎているという人もいるようですが、野暮というものです。詩人は、相手を思う気持ちを高める表現として洗練された詩語を使うものであって、その表現が高ければ高いほど、思いの深さを感じなければならないのです。
この「言外の意」は、直接的な愛情表現を越えた世界なのです。「香霧」「清輝」という詩語の美しさは、詩人の心の美しさでもあるのです。この詩を読んでいると杜甫の心の美しさと愛情が伝わってくるのです。文字の向こうにある杜甫の思いを読んでみてください。
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