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ジンギスカンは北京を攻め落したが
この土地にあまり興味を示さなかった
北京を大都と呼び、元の都としたのは
ジンギスカンの孫のフビライである
北の小国、燕がうぶ声をあげて二千余年
北京は初めて統一中国の都となったのだ
この都の中心の皇居の位置をきめたのは
フビライが放った一本の矢だったという
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女真族の金の北京支配は百年足らず(1125〜1215年)で終わり、替って北京入りしたのは元の太祖ジンギスカン(1167?〜1227年)の率いる蒙古軍です。蒙古軍は1215年に北京に入城していますが、その隊列にはジンギスカンの姿はありませんでした。『元史』によると、勝利のめどがついたところでジンギスカンは、あとを部下にまかせて、桓州(現在の内蒙古自治区正藍旗)に避暑に行ってしまったようです。遊牧・騎馬民族の気性とでもいうのでしょうか、ジンギスカンは北京という土地に、いや生涯を通じて土地そのものに、あまり執着はなかったようです。
ジンギスカンはその後、北京を訪れてはいますが、長居はせず、関心は西に向けられ、みずから陣頭にたって中央アジア、ヨーロッパの大陸遠征にでかけてしまいます。あとを継いだ息子の太宗オゴダイ(1186〜1241年)も大陸遠征を続け、ロシアを破ったあと、ハンガリー、オーストリアをも席捲しています。
そんなわけで、蒙古王朝の都はかなり長いあいだ蒙古草原北部のカラコルム(現在のモンゴル国中部)に置かれたままでした。蒙古軍の入ったあとの北京は、蒙古王朝の中国北部支配の一拠点というあまり目立たない半世紀をおくったのです。北京が大きく脚光を浴びるようになったのは、1260年にジンギスカンの孫にあたる世宗フビライ(1215〜1294年)が皇帝の座に就いてからです。
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団城は北海公園の正門の西にある |
フビライはジンギスカンの四男トゥルイの息子で、皇帝になる前は蒙古砂漠の南側、漢族の住む地方といった意味の漠南漢地の統治を任されています。そんな関係で、その行政府を中国北部よりの開平(現在の内蒙古自治区正藍旗)に置いていました。皇帝になったフビライは、政治の中心をさらに南移し、首都をカラコルムから開平に移し、そして北京を副都とします。夏場は涼しい開平で、冬場は暖かい北京で政治をおこなったのです。
つまり、両都制で、1263年には開平を上都、1264年は北京を中都と改称しています。こうした政治の中心の南移からも、南の豊かな中国大陸を視野に入れた中国大統一をめざすフビライの夢がうかがえます。
フビライは1271年に国号を元と改め、翌年には中都を大都と改めて元の首都とし、北京はその歴史上はじめて統一中国の首都となったのです。南に逃れた宋は1279年に滅んでいます。
熱血漢ジンギスカンの血をひくフビライの行動は果敢でした。その一方、包容力のある実務家でした。
遠く燕の時代から二千年にわたって歴代王朝、地方政権の都の所在地だった北京西南部、現在の宣武区広安門一帯にあった旧都にきっぱり見切りをつけ、現在の故宮を中心とした位置にまったく新しい都、つまり大都を建設することに踏みきった果敢さ、そしてその建設の実務には民族の壁を越えて漢族の劉秉忠、段韃、蒙古族のエスグカ、女真族の高
、色目人のエケデル、さらには国境の壁も越えホパール人のアニゴといった有能な人材を大胆に起用する包容力をみせたのです。
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「遮蔭侯」と名づけられた古松は団城にある |
こうして、大都の建設は一糸乱れず、ハイピッチで進められました。至元4年、つまり、1267年正月の黄道吉日に工事を始め、1283年にはほぼ完成し、主だった役所が新庁舎に入り、1285年には西南部の旧市街に住んでいた一般市民の大都への移住が始まっています。大都を囲む周囲2万8600メートルの城壁の工事は、至元18年、つまり1287年までかかっています。
元の皇居の主殿である大明殿は、至元11年(1274年)に工事を終わり、その年の元旦にフビライがここで文武百官の朝賀を受けています。高さ30メートルの大明殿は、歴代の漢族の王室の皇居の主殿のしきたりに従って建てられたもので、そのまわりの三層の台座には、漢白玉石の欄干をめぐらせていました。外観は、現在故宮に残されている明朝、清朝の皇居の主殿、太和殿とあまり変わらないものだったようです。
しかし、造営にあたってフビライは、故郷である蒙古草原のことを忘れませんでした。フビライは大明殿の台座のくぼみに、蒙古草原に生える蒙古ハマスゲを植えさせました。子孫に自分たちのルーツを忘れさせないためだといわれています。
絵もよくしたという元の文人、柯九思(1290〜1343年)は、このことを次のような詩に書き残しています。世祖はフビライ、春草は蒙古ハマスゲ、丹ワッは宮殿の三層の台座の最上段のことです。
黒河万里沙漠に連なり
世祖深く思う創業難しきを
数尺の欄干春草で護り
丹ワッに留めて子孫に看せしめん
この大明殿の玉座も変わっていました。皇帝と皇后の椅子が並んで置かれていたのです。皇帝と皇帝が一緒に朝賀を受けたのです。これは、中国のその他の王朝にはみられない蒙古族特有のしきたりだといえましょう。
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清の宮廷料理を今に伝える『ホウ膳』 |
大明殿の建物の内部のインテリアには、羊毛で織った壁かけや絨緞など蒙古草原の香りをたたえたものがふんだんに使われていました。フビライが造営したこの皇居のなかには、またヨーロッパ、中央アジア遠征のみやげものでしょうか、ステンドグラスを入れた宮殿やサウナ風の浴室も設けられていたそうです。
歴史上、フビライを蒙古族の裏切者呼ばわりした人もいましたが、大明殿に植えられた蒙古ハマスゲは、漢族はじめ諸民族との融和による国の富強をめざす一方で、蒙古族の誇りを忘れなかったフビライの心を端的に示すものといえるのではないでしょうか。
元代の北京の皇居附近を描いた地図をみてみますと、城壁南の中央の門である麗正門にしろ、皇居の正門である崇天門にしろ、皇居の主殿である大明殿にしろ、皇居の北門である厚載門にしろ、みな大都を南北に貫く中軸線上にみごとに並んでいます。そして大都の街並びは、この中軸線から東西に広がり、南北がやや長い長方形の城壁に囲まれているのです。
現在の北京の地図をこれに重ねてみますと、現在の北京のルーツがこの元代の中軸線にあることが浮かびあがってきます。現在の北京の東西南北を走る第2、第3、第4の環状線道路も、じっくりみてみると、この元の時代の中軸線を文字通り軸にして東西南北に膨らんでいるのです。ちなみに、元代の皇居の主殿、大明殿は現在の故宮の主殿、太和殿のいくらか北側に位置していたようです。
ところで、この中軸線はどうやってきめられたのでしょうか。こんな伝説があります。皇居をどこに建てるかという問題が持ちあがったときのことです。フビライは、現在の北海公園のなかにある団城に立って、そこから東南に向かって矢を放ち、この矢が落ちた所を皇居の中心にしたというのです。そしてここに大明殿が造られ、この大明殿から南北に中軸線が引かれて、その線の上に南の正門の崇天門、北の裏門の厚載門などなど王室と関係の深い建物が造られていきました。フビライの放った一本の矢が北京の中心を決め、さらに中軸線を決め、これが元から明、清、そして現在にまで受け継がれているということになるのです。
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清の順治帝のころ建てられた白塔。高さは35・9メートル |
あくまでも伝説ですが、遊牧民族であった蒙古族には、矢を放ってその落ちた所を夜営の地とする風習があったそうで、フビライの「一本の矢」説もまんざら伝説だと片づけてしまうのはもったいないような気もします。
フビライが矢を放ったというこの北海公園には、「遮蔭侯」と名づけられる古松がいまも健在です。金代に植えられたといいますから樹齢は八、九百年、フビライの目にもとまっているはずです。
下って清の時代の夏のある日、風流皇帝として知られる乾隆帝(1711〜1799年)が、団城に傘のように枝をひろげ、ハスの花の咲く池から吹きあげてくる風を受けて涼しい木陰をつくっているこの松の木の下にやってきました。そして、ここの涼しさがすっかり気に入り、この松に「遮蔭侯」――涼しい木陰をつくってくれる侯爵という爵位を授けたというのです。木にも爵位を授ける――風流皇帝ならではのことでしょうが、「遮蔭侯」は皇帝なきいまも健在で、市民に涼しい木陰をつくってくれています。
いまでは北京市中心部の北海公園の一部となっている団城には、「遮蔭侯」とともにフビライを目にしたもう「一人」の「生き証人」が残っています。ここの玉瓮亭に置かされている直径1・82メートル、重さ3500キロの大きな玉の酒がめです。フビライの命令で造られた「萃山玉海瓮」とよばれるこの酒がめには、竜や雲などが浮き彫りされており、中国最大の玉器だそうです。
この大酒がめは、フビライの時代には池をはさんで団城の隣にある瓊華山のいただきにあった広寒殿に置かれ、フビライがここで酒宴を開くときに使われていました。広寒殿はフビライお気に入りのゲストハウスで、至元元年(1264年)には、フビライがここで北京を訪れた高麗の国王をもてなしたという記録が残っています。フビライはよくここに客を招いて「酒三十余石を注ぐことができる」と史書に記されているこの酒がめをかこみ、瓊華山の四方に広がる北海という池の景色を楽しみながら、酒をラテみ交わしたようです。
その後、清の順治八年(1651年)に広寒殿の跡に高さ35メートルのチベット風の白い塔が建てられ、この塔がいまでは北海公園のシンボルになっています。遼、金、元、明、清の五代の王朝の離宮や御苑だった北海公園は、これら五朝の風流の粋を集めた大展示場で、北京の観光には欠かせないところです。お昼は清の乾隆帝が北海のほとりに建てた蔬瀾堂に設けられている宮廷料理「キツ膳」で、西太后(1835〜1908年)の大好物「肉末焼餅」(炒めたひき肉をはさんだ中国風ホットドッグ)などで舌つづみを打ち、一日かけて五朝の風流の粋をゆっくり楽しんでください。芥川竜之助(1892〜1927年)ら日本の多くの文人も遊んだこの北海公園、うわさによるとユネスコの世界遺産登録の用意をしているとか、そうなると「キツ膳」もよそに移転せざるを得なくなるのではないか、まあいずれにしろ早目におでかけになっては……。
次回も元代の北京のお話で、イタリアの旅行家マルコ・ポーロの目に映った当時の北京をご紹介しようと思っています。
李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
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