1月の北京は凍てつくような寒さだった。家々の軒先には長いつららが下がり、道も凍りついていて、あちこちで滑って転んでいる人を見かけた。
1958年冬、私たち兄弟は両親に連れられ、北京の地を踏んだ。私は15歳の中学3年生、弟は13歳、中学1年生だった。私にとっては10年に渡る北京生活の開始であった。言葉は全くわからず、中国についての知識はゼロ、不安いっぱいの出発だった。国交正常化の14年も前のことである。
北京に着いて間もなく、私と弟は東城区灯市口にある北京市第25中学校に入った。私は初級中学3年生に、弟は同1年生となった。
通学ははじめ電車で、都市改造で電車が廃止されると自転車になった。学校に行っても授業は全くわからない。ただ教室に座っているだけの毎日が続いた。日本では考えられないような授業もあった。「政治」、「聴報告」(政府や党の方針や政策について説明を聞く)、それに「生産労働」というのがあった。近くの工場や近郊の農村に手伝いにゆくのである。「社会の主人公である労働者、農民に学ぶため」と教えられた。学生は暖かく迎えてくれた。外国人が珍しいこともあり、みんながなんか理由をつけてはやってきて声を掛けてくれた。始めはお互いに手真似足真似、それに筆談だ。授業以外は結構楽しかった。バスケット、バレー、サッカー、卓球と、スポーツは盛んだった。
担任は楊先生、「語文」(国語)を教える中年の男の先生だ。毎朝校門で迎えてくれ、帰りは校門まで送ってくれた。困ったことがあったら何でも言いなさい、今日の授業はわかりましたかと、毎日聞いてくれた。始めは全部筆談である。そのうち、一行でもいいから毎日作文を書いてきなさいと宿題を出された。書いたものはすぐ赤ペンでなおしてくれた。
楊先生はクラス一番の秀才、陳君を私につけてくれた。復習のためである。陳君はぴったり私について、その日の復習をし、時間があれば街を案内し、「中国」について説明してくれた。アイススケートを教えてくれたのも陳君である。私が風邪を引いて休もうものなら、放課後とんできて夜遅くまで看病してくれた。ある時など、親戚に「中医」(漢方医)がいるのでと、漢方薬をいっぱい抱えてきた。
日本を出るとき、ある人が日本はかつて中国でひどいことをしたからと、私たちがいじめられるのを心配してくれた。でも私は楊先生や陳君を見て、正直ほっとした。
高級中学1年生になると、担任は代わったが、楊先生の作文直しはしばらく続いた。陳君とは高級中学を卒業するまでずっと一緒だった。私は卒業を間近に控えた時、初めて陳君のおじいさんが日本の兵隊に殺された事を知った。「君には関係ないし、もちろん責任はない。僕たちはいつまでも親友だ」そう言った陳君の声が今でも耳に残っている。
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