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一冊の本が台湾で売れている。わずか半年で25刷りを重ねた。その本の名は『移民上海』。台湾を飛び出して、中国の大陸部、とくに上海を目指す台湾人にとって、この本は必読書になっている。
台湾人ばかりではない。香港人も日本人もアメリカ人も、全世界のほとんどの人たちが、中国経済の最先進都市、上海に関心を抱いている。「上海と関係がないと時代に遅れてしまいそうだ」と言う人さえいる。
穏やかな響きの上海語を操り、繊細な上海料理を食べ、実用的だがアカ抜けした服を着た聡明な上海人が住む上海は、もともと外から来る人にとっては溶け込みにくい土地だった。しかし今は、四方八方から人々がやって来て、ここにその身を投じる。
上海が人々を魅惑する力はいったいどこから来るのか。なぜ人々は上海が好きなのか――その理由は人それぞれによって異なる。しかしさまざまな答えの中から、その秘密を探ってみたい。2003年の年の初めに当たり、今年もまた上海が、話題の中心となる予感がするからである。
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夢追い人たちの街
文・王浩 写真・郭実
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上海のガーデンブリッジ(外白渡橋)のたもとに、浦江飯店がある。昔は「リチャード飯店」といい、百年の歴史を持つ古いホテルだ。六階にある屋根裏に登って小窓を開けて外を眺めると、上海を二つに分けて流れる黄浦江が前の方から流れてきて、蘇州河と合流しているのが見える。
黄浦江の東側は、1992年以後に発展した。高層ビルが林立し、200メートルを超す上海東方テレビ塔と金茂大廈が、肩を並べるように建っている。黄浦江の西側は有名なバンド(外灘)である。20世紀初頭に建てられたヨーロッパ風の建築物が黄浦江沿いに、横一列に並んでいる。ここには上海の「古さ」と「新しさ」が互いに光を反射しあいながら輝いている。
長い歴史を持つ上海の商店街、南京路は、東西にのびている。東の端はバンドに突き当たる。南京路の賑わいはずっと以前から上海のシンボルとなっていて、外から上海にやってきた人は必ずここを訪れる。
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南京路は全国から、また世界からの観光客を引き付ける |
南京路の道幅は広くない。道の両側はだいたい1920年代か1930年代に建てられたヨーロッパ風の建築で、時代を経たため建物自体はすでに灰黒色に変わってしまったが、華麗で気品に溢れた建築の風格は、いまなお覆い隠すことができない。この高いビルとビルの間の路地に入ってみると、まるでヨーロッパの路地に迷い込んだような錯覚に陥る。
南京路には人が溢れ、あまり広くない通りは異常な賑わいである。マーケットの中のエスカレーターは、客で立錐の余地もない。通りを行き交う小型の観光バスも、観光客で満員だ。宝くじ売り場の前も人垣ができている。おそらくここにいる人たちは、自分の運を試してみたくて、当たるかどうか、籤をいっぺん引いてみようというわけだ。
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「真鍋珈琲」の徐黎培店長 |
南京路の東端に「真鍋珈琲庁」がある。店は大きくないが、内装は凝っている。店長は徐黎培という長髪の22歳の若者である。彼は店長になってからもう一年になる。これほど若くして一つの店の責任者になるのは容易なことではない。しかし彼は「これが当たり前なのです。ここでは、一生懸命に働くだけで上司に認めてもらえる」と言うのだ。
徐さんは大学を卒業してすぐこの仕事に就いた。最初の一年目に「優秀店員」の称号をもらい、二年目にはこの店の店長になった。
彼の説明によると、このコーヒーショップの営業成績は大変良いという。毎日、多くの客がコーヒーを飲みに来るが、中には常連客もいて、上海人がコーヒーに対して独特の思い入れを持っていることをうかがわせる。
実際、上海人は早くからコーヒーを飲む習慣があった。1918年に北四川路に上海最初のコーヒー店ができた。店の名は「上海珈王琲」と言った。当時、この店の顧客は大多数が文学者や一部の進歩的な青年たちで、彼らの集う場所になっていた。その後、コーヒーはだんだんと上海に根付き、上海人の生活の中に浸透していった。
他のコーヒーショップに比べ、「真鍋珈琲庁」は非常に静かで、一人か二人で来て暇をつぶしたり、休憩したりするのにちょうどよい。
上海の「真鍋珈琲」は最初、台湾人が持ってきた。その一号店が上海の淮海路にオープンすると、たちまち上海の人たちの人気を呼び、当時はいつも店の前に行列ができるほどだった。その後「真鍋珈琲」は、上海で次々にチェーン店を展開し、すでに20店ほどになっている。
上海人はどうして「真鍋珈琲」が好きなのか。徐さんの解説はこうだ。
「上海人は、生活面では品格を重視します。集まりでも暇つぶしでも、コーヒー店に来るのが好きという人が多いのです。この店のコーヒーは品質が非常に良く、店の雰囲気も上品でゆったりしているので、みんなに愛されているのです」
「真鍋珈琲」はその他の都市でも数店の店舗を出したことがあるが、みなあまりうまくいかなかった。上海の店だけが非常にうけたのは、おそらく上海人の生活の好みに合致したためだろう。
上海で根付いて成功を収めたのは「真鍋珈琲」だけではない。「星巴克珈琲」(スターバックス)、「巴黎春天撮影」、「百盛商場」(パークソン)などの有名店が、上海に来て、生き残っている。上海の街を少し歩いてみると、いつも新しいブランドが市場に出回っているのを見かける。上海はあたかも外国製品が中国にやって来て最初に停まる駅のようになっているのだ。
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モダンな「上海姑娘」たち |
「上海は、女が一人で暮らすのに適した都市です」――台湾人の李玉恵さんの目に、上海はこう映る。彼女は世界最大の音楽テレビ会社であるビアコムの中国地区のジェネラルマネージャーである。
彼女が最初に上海にやってきたのは、偶然の機会があったからだ。米国で仕事をしていたとき、上海出張を命じられたのだ。だから、上海に来る前には、古色蒼然とした小さな都市というほかは上海に対してとくになんの感慨もなかった。
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台湾人の李玉恵さん |
しかし、飛行機を降りるやいなや、李さんは呆然とした。「上海がこんなに大きく、こんなに近代的な都市だなんて、思いもよらなかった。高層ビルや地下鉄、美しい黄浦江やバンド……」
彼女は上海に一日いただけだが、興奮で一分間も眠らなかった。彼女は米国に帰るや、すぐに上海で仕事をしたいと進んで申し出たのだった。それから早くも4年の歳月が流れた。
「上海の気候は湿潤で、大風が吹くことも、ひどく乾燥することもなく、生活面では非常に快適です」と李さんは言う。
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バンドから浦東を見る。これも一つの新風景となった |
各地方の料理に関して彼女は、その地方の料理がその地方の気質をもっともよく反映している、という考えをもっている。台湾と上海を具体的に比較すれば、台湾は、もとは「農民の国」だった。だから人々は「塩漬け肉のかけご飯」を好んで食べる。それはおそらく、畑で農作業中に、塩漬け肉と汁を米飯にかけていっしょに食べるのが便利だったためだろう。上海人の食べるものは凝っていて、辛くもなく塩辛くもなく、薄い味の中にわずかに甘味がある。これは上海人が生活面で、細部に至るまで注文をつけるためだろう。
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アメリカで働いている邱さんは、上海へお嫁さんをもらいに来た |
上海の変化は激しい。「上海は毎日、変化しています。数日間、外を歩かないだけで、目に映るものが大きく変わっている。ここで暮らす人々の歩く速度もだんだんと速くなっている。この都市の変化には本当に驚かされます」と李さんは言う。
実は、李さんのような、上海の好きな台湾人は少なくない。台湾の蔡ファミリーは、台湾の有力な財団である。その総支配人の蔡辰男氏は上海で、「小湯包」(小さな肉饅頭)の店を開いた。
どうして「小湯包店」を開いたのか、と人々は訝った。「蔡辰男ともあろう者が、上海に投資して黄浦江に大きな橋を架けることだってできるのに、どうして小さな店なんか開こうと思い立ったのだろう」という人もいた。
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上海では地下鉄が三路線開通している。全長は延べ65キロ |
だが、蔡氏には自分なりの考えがあった。それは、これからも上海にしょっちゅう来るためには、何か理由をつけなければならない。「小湯包」の店は、上海で彼がちょっと足を休めるところなのだ。
他の地方に比べ上海は、台湾人には一種の親近感が持てるところである。20世紀の40年代末に、10万人以上の上海人が続々と台湾に移住した。そして、台湾海峡両岸の関係が氷つき、それが緩和されるまでの約40年間、台湾と上海は完全に隔てられてしまった。
しかし台湾人の上海に対する思いは、非常に深かった。80年代中期から後期にかけ、第一陣の「台商」(台湾の企業家)が大陸部に来て投資したが、彼らが真っ先に選んだのは上海だった。そしていま、上海には20万の台湾人がいて、がんばっている。この人々は「上台族」と呼ばれる。
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「新天地」には、流行を追う上海人と、上海で働く外国人が良く行く |
上海に対する台湾人の思い入れのほかに、上海のもつ巨大な商売のチャンスが、台湾人をここに引き寄せるさらに大きな力になっていると言わなければならない。改革・開放政策が始まったばかりのころ、上海は「ベンチャー企業の楽園」と呼ばれたことがある。
まだ30歳代の康さんは、台湾から上海に来てある通信会社の職員をしていた。1997年、数万元を貯めて外国に行こうと思った。ちょうどそのころ上海の証券市場では、「転配股」が売り出された。「転配股」は、増資による新株を引き受ける権利を株にしたものだ。
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忙しく働く上海人 |
康さんは思い切って、自分の預金全額でこの株を買った。一年後、彼の資本は40万元にまで膨れ上がった。康さんは「もうどの国にも行きたくない。上海でやりたいことがまだあるから」と言っている。
台湾で編集者として資格も経験もあった林立娟さんも上海に来た。しかし、上海にある台湾企業は彼女を採用しなかった。上海人の企業も月給が低かったので、彼女は行きたくなかった。最後に彼女が選んだのは、自分で店を開くことだった。一人前5元のセルフサービスの食事を商売にした。一日で百人前以上を売り上げた。1カ月の収入は7000元以上に達した。
上海という都市は、なにかやろうと思いさえすれば、それが実現できるところであり、これがおそらく内外の人々を上海に引きつける最大の理由のように見える。
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衡山路にある古い欧風建築は、レストランに改造された |
中国の都市の中で、上海はもっとも早く西側の文化と接触した都市の一つである。1608年に早くも、中国の有名な科学者である上海人の徐光啓が、上海の徐家匯に中国最初のカトリックの礼拝所を建立した。こうした西側の文化との接触が、上海の自由で開放的な空気を醸成した。
清朝末期に、広東で県の官吏をしていた上海人の李平書が、外国人と衝突した。時の北洋大臣、李鴻章は、李平書を批判してこう言った。「君は上海人ではないか。外国人と付き合うのに慣れているのに、なんと身のほどを知らないことか」
つまり当時の上海人は、すでに中国のほかの都市の先頭に立っていたことを見て取ることができる。
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街頭で絵を描いている外国人の芸術家 |
上海の自由な空気によって、上海は文人たちが集まってくる場所となった。戊戌の変法(1898年に康有為、梁啓超らが提唱した改革)が失敗に終わったあと、教育家の蔡元培や張元済ら文人たちが上海に来て、教育と出版の事業に従事した。後に魯迅、茅盾、巴金らが相次いでやって来て、ここで創作活動を行った。こうした人々の到来は、多くの文学青年の情熱をかきたて、上海に文化の発展をもたらした。
現在も上海は、中国の文化が集中するセンターの一つで、首都の北京と競っている。例えば、上海国際映画祭、上海隔年展は、ブームの先端を行くものだ。
上海・泰康路に、あまり人の注意を引かない路地がある。この路地に、数軒のアトリエ兼画廊やさまざまなコレクションの店があって、同業者たちがいつもここを訪れている。「爾冬強撮影工作室」もここにある。
爾冬強さんは、上海の有名なカメラマンである。彼の仕事場は、もとはコーヒーの加工工場の倉庫だったので、中は大変広い。現在、一階は大きな展覧ホールになっていて、中には中国のある若い画家の作品十数点が展覧されている。この作品の多くは、現代感覚が濃厚なものだった。
さらにもっとも奥まったところに小さな舞台もあって、新劇の好きな爾冬強さんは、毎月一回ここで新劇サロンを開く。そのやり方は、大変リラックスしたもので、多くの友人をひきつけている。
二階は小さな屋根裏部屋になっていて、事務室として使われている。その中はいたるところ書籍ばかりで、わずかに一つの大きな文机があるが、その上の大部分は本に占領されている。
爾冬強さんの業績は、上海によって作り出されたものだ。80年代初め、上海の街は改造され、一部の古い家屋は壊されて、住民は移転した。このとき爾冬強さんは、今取り壊されている建物の中の多くは、近代以来、ヨーロッパ人が上海に建てたもので、こうした家屋はみな、大きな文化的価値があることを発見した。
しかし、都市の改造によって、古い建物は二度と再びよみがえらない。そこで爾冬強さんは、こうしたまさに失われていくものを記録に残そうと決意した。「建築はその都市の文化のシンボルであり、こうした都市の昔ながらの文化的特色は、記録に残さなければならない」と彼は考えた。
そこでカメラを背負って、上海の大通りや路地を歩き回り始めた。その結果、上海にあるほとんどすべての欧風建築をカメラに収めた。どんな小さなものも漏らすことはなかった。この仕事は3年がかりだった。
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カメラマンの爾冬強(自分の仕事場で) |
後に彼は著作『最後の一瞥――上海の西洋建築』を香港で出版し、国内外の関係者の注目を集めた。2001年、爾冬強さんは米国建築家協会が「傑出した作品」に対し授与する賞を獲得した。建築の専門家ではない者がこの賞をもらうのは、大きな栄誉であった。
爾冬強さんの活動は写真撮影ばかりでなく、非常に多くの領域にわたっている。書店を開いたり、絵の展覧会を開いたり、ものを収集したり、新劇の公演をしたり、ほとんど何でもやってしまう。しかもそうした活動はどれも素晴らしい出来栄えなのだ。
どれもうまくやれるのはなぜなのか。爾冬強さんは言う。「それは上海という環境が私を造ったと言うべきだろう。上海は開放された都市であり、ここに暮らす人に開放的な素質をもたらす。上海では能力がありさえすれば、みなここで開花することができるのだ」
今に至るも爾冬強さんは、彼のカメラで上海を記録する作業を止めようとはしない。このため彼は、上海の郊外に住宅を買った。一年のうちで一定期間、ここに住む。「都市で暮らしていると、身近な小さな変化に気づかないことがある。一定期間、田舎に住むと、この都市がもっとよく見えてくる。ここではどんなものが消えて行き、またどんなものが新たに生まれてくるのかを見ることができるのだ」と彼は言うのである。
爾冬強さんはまた、上海を中心に「中国における西方の宗教建築」「中国の貿易港における西洋建築」などのテーマで引き続き撮影の仕事をしている。どの仕事も、多くの時間と労力がいる。彼にとっても決して簡単な撮影ではなく、一大事業である。爾冬強さんは「上海が私に、こうしたチャンスと啓発を与えてくれたことに感謝したい。これは、上海を中心に、中国の近代史を梳るように整理する作業であり、こうした仕事は実にやり甲斐のあるものだ」と言っている。
爾冬強さんのように上海で暮らしている芸術家は他にも多い。画家の陳逸飛さん、有名な映画監督の謝晋さんらである。彼らは上海に対して特殊な感情を抱いている。なぜなら上海のこの特殊な土壌が、彼らに巨大な創造力を与えてくれるからである。
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