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三陽開泰
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午年は、馬の尻尾のように2003年1月末まで続き、2月1日から未年が羊のようにしゃなりしゃなりとやってくる。十干十二支の文化圏の中にある国や地域では、午年の喧騒が終わりを告げ、静かで、めでたい未年を迎える。
古人は「羊致清和」(羊は太平をもたらす)と言った。2003年が、天下泰平の良い年になるよう願わずにはいられない。
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新春を迎え、うららかな陽光のなかで、まず思い起こされる縁起の良い言葉は「三陽開泰」である。旧暦11月の冬至の日は、昼がもっとも短く、夜がもっとも長い一日だ。この日を過ぎると、昼はますます長くなる。古人は冬至の日から「陰の気」が次第に去り、「陽の気」がだんだん生じてくると考えていた。だから、冬至の日に「一陽」が生じ、臘月(旧暦の12月)には「二陽」が生じ、正月には「三陽」が生じて「開泰する」(泰平をもたらす)と言われるのだ。
「三陽開泰」とは、春が巡って来て、万物の生気が満ち溢れるという意味だ。「三陽開泰」を絵に描くと、陽光を浴びている3頭の羊の吉祥図案となる。「陽」と「羊」とは中国語の発音が同じだからだ。3頭の羊はよく民間の年画や切り紙の中に登場し、家々に喜びを添える。とくに未年の春節(旧正月)に「三陽開泰」を言うと、めでたさがさらに増す。
羊は人間の生活と密接な関係がある。食べ物にもなり、防寒用にも使われている。昔は祭祀や儀礼にも使われた。
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羊年吉祥(未年おめでとう) |
後漢の許慎は『説文』の中で、「羊は祥なり」と書いている。昔は、「羊」という字は「祥」に通じ、これが縁起の良さを表わしているのは言わずもがなのことである。鬼神を敬い天地を祭るときに用いるには理想的な祭祀の品だ。古人の儀礼では、天子に拝謁するときには鬯(一種の香酒)を献じ、諸侯に面会するときは玉を奉り、大臣に会うときには羊を捧げる風習があった。古代の書物『春秋』の『繁露』編の中で、羊はこう説明されている。
「羊は角がありながら用いないのは、仁を好む者のようだ。これを執えても鳴かず、殺しても泣かないのは、義に死する者の類である。子羊が乳を吸うとき必ず母の前にひざまずくのは、礼を知る者の類である。だからこそ羊は、祥のごとしと言うのである」
仁を好み、義に死し、礼を知る。羊は大いに君子の風格があるというべきである。
そのうえに、「羊」は「祥」に通じるので、もっともふさわしい礼物である。
また、羊の夢を見たら良い嫁がもらえ ると、古人は思っていた。漢の高祖・劉邦(在位紀元前206〜195年)が亭長(宿場役人の長)だったとき、羊を追う夢を見た。その羊は、角と尻尾がみな抜け落ちてしまった。ある人が彼にその夢の意味を解説してこう言った。
「羊という漢字から『ソ』(角)と『ー』(尻尾)を抜くと『王』になる」
劉邦にとってそれは、嫁を娶ることよりももっとうれしいことだった。
昔、河北省の南部では、羊を贈るという民間の風習が流行ったことがある。毎年旧暦の6月から7月にかけて、外祖父(母方の祖父)または母方のおじが、小さな孫や甥に羊を贈る。もともとは生きた羊を送っていたが、後に羊をかたどったマントーに変わった。
言い伝えによると、この風習は、「沈香が山を切り開き、母を救う」という有名な物語からきているという。『西遊記』のなかで、孫悟空と大いに戦った二郎神君楊センは、横暴跋扈する天上の神であった。彼の妹の三聖母は、秀才の劉彦昌を愛し、仙女にもかかわらず俗人と結婚し、息子の沈香を産んだ。二郎神君は非常に怒り、妹を華山の下に押し込めた。成人した沈香は、仙人に教えを請い、宝蓮燈と神斧の神通力によって二郎神君を打ち負かし、斧で華山を切り開き、母を救い出した。いまでも陝西省内の華山の上に、この物語の風景を探し出すことができる。
その後、沈香は母を虐待したおじの二郎神君を斧で殺そうとしたが、二郎神君は完全に負けを認めたので、兄妹、おじ甥の好を修復するため、毎年甥に一頭の羊を贈って、謝罪した。そのことから、羊を贈る風習がいまも残っているという。
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羊年封猴(未年に王侯に封じられる。「猴」とは同じ発音だ) |
羊に関する多くの風習が「食」と関係しているのは、別に不思議ではない。やはり羊の肉は美味しいからだ。「美」という字はもともと味を形容するものだ。「美とは美味しいということだ。その字は羊と大からなる」と書かれている。「羊」という字と「大」という字を合わせると「美」という字になる。
もうひとつ、「鮮」という字は、珍しい、美味しいという意味がある。魚と羊という字からなり、この二字が並んで「鮮」となる。すなわち滅多にない美味しさという意味だ。昔は交通が不便で、西北地区は新鮮な魚がなかった。一方、東南の沿海地区では、羊はあまり食べられなかった。このためこの二つを並べ、珍しく、美味しい味を宴席に集めれば、必ず盛大な宴会になると考えたのだ。
羊の外観は善良でおとなしく、神格化するのは容易ではない。古人は羊のことを「火畜」とか「金精」とかと呼んだという説もあるが、然るべき故事は伝わっていない。
「箋豸」は一本の角を持つ神羊で、どちらが是でどちらが非か、ちょっと角で突けばすぐ判断ができる。そのため、司法の手続きが大いに簡略化された。言い伝えによると、楚の国の王はかつてこの獣を手に入れたことがあり、「箋豸」の形をした冠を作らせた。このことから後にこの形をした冠が、法を執行する官吏の被り物となった。
「箋豸」は法の公正さを象徴するものになったので、清代の御史(天子の左右に仕える役人)や按察使(省の司法長官)の官服の前後に付けられた飾りにはみな「箋豸」の図案が刺繍されている。それは西洋の司法官の黒いガウンやかつらと同じように、法律の尊厳を示すためのものである。
羊という字が付けられた場所は非常に多い。羊街、羊場、羊肉胡同、羊尾バ胡同、羊圏胡同など、枚挙にいとまがないほどだ。もっとも有名なのは羊城、すなわち広東省の広州である。
南海の五人の仙人が五色の衣を着て、五色の羊にまたがり、それぞれの茎に六本の穂が付いた稲穂を持ってこの土地を祝福し、そして空中に舞い上がり去っていった。仙人たちが乗ってきた五頭の羊は残され、石と化した。それが、広州が「羊城」とも呼ばれ、その略称は「穂」となった所以である。そして五頭の羊の彫像は広州のシンボルとなった。
四川省の成都市にある青羊宮も、羊とのかかわりをよく言われる。中国の偉大な文化人で思想家の老子は、函谷(現在の河南省霊宝県内にある)を出て西に向かったが、『道徳経』二篇を残しただけで、その後の行方はわからない。言い伝えによると、老子はいまわの際に、弟子に「四川省の青羊肆に吾を尋ねよ」と言ったという。後に弟子は成都へ行き、青羊肆で転生した老子を探し当てた。
青羊肆には一頭の銅製の羊があるため、その名が付いた。後に皇室によって勅封され、「青羊宮」と改名した。銅製の羊には、十二支の動物の特徴がすべて集められている。鼠の耳、牛の鼻、虎の爪、兎の背、竜の角、蛇の尾、馬の口、羊の髯、猴の首、鶏の目、犬の腹、猪の尻である。
後にもう一つ、銅羊の模造品が造られ、これと一対になって青羊宮の三清殿の中に置かれ、現在でもそこにある。この羊の角は一本で、竜が変身したと伝えられる神羊である。頭が痛ければその神羊の頭にさわり、お腹が痛ければその腹に触れれば痛みが治るという民間伝承がある。
老子が転生したという神話があるため、青羊宮は道教の有名な道観となるとともに、四川省の有名な観光地となった。大昔から人々に礼拝され、触られて来た銅羊は、依然として神秘的に青く輝く光に溢れ、干支の文化の燦爛たる輝きを放っている。
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