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[筆者履歴]
1953年生まれ。83年、北京工業大学コンピューター学院を卒業、88年、日本に留学。91年、慶応大学を卒業し、SMC社に就職。96年、PSBソフト開発会社を設立し、代表取締役社長に就任。
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私は小さいころからいつも親に迷惑をかけてばかりいた。そうした性格のせいか、日本に来て勉強したり、仕事をしたりしているとき、どのようにして中国と日本の友達を集めて、会社を起こすかをいつも考えていた。
日本は自由な経済の社会であり、起業しようとする者にとってチャンスはあるが、しかし決して平等とはいえない。とくに、中国人が日本で会社を起こすのは、日本人が起こすのよりかなり難しい。
会社を設立するために、私は五年間勤めた日本のソフト会社をやめた。安定した収入がなくなり、これからはどう暮らしたらよいか、失敗としたら、投入した資金が水泡に帰すのではないか、と思った。
その時期、私は夜を日に継ぐように休まずに働いた。結局、過労で入院したこともある。「誠意によって人を感動させる者には、人もまた誠意で応える。術(権謀)で人をあやつる者には、人もまた術で対応する」という。
私の会社は、私が入院している間に発展した。最初、社員は4人しかいなかったが、私が退院した時には10人に増えていた。創立1周年記念を祝った時には27人になった。現在、社員は80人余り、資本金は5000万円で、年間売上額は6億2000万円にまで発展した。
企業経営者としての私は、決して万能の人間でもなく、特別に優れたところもない。専門技術からいえば、会社の業務のエリートたちに及ばないし、日本語のレベルでは、いっしょに日本に来た友人にかなわない。今日、自分がある所以は、誠意を持って人と付き合うことを重視する私の思想と関係がある。
このことを思うとき、生涯忘れられない一人の日本の老婦人のことを思わずにはいられない。それは初めて日本に着いたときのことだった。人に道を尋ねたが、それが、奥村和子さんというごく普通の日本のおばあさんだったのだ。
奥村さんは熱心に道を教えてくれただけでなく、私が留学生であることを知ってからは、いつもいろいろと面倒をみてくれた。また、私を通じて留学生たちに、百組以上の夜具や日用品を寄贈してくれたこともある。
物質的な面だけではなく、精神の面でも、彼女はずっと励ましてくれた。「人を国籍の違いで分けてはいけない。互いに敬い、助け合い、愛し合わなければなりません」と奥村さんはよく言った。
会社を創設したとき、一定の比率で、日本人の管理職がいなければならないという規則があったため、奥村さんはためらわずに私の会社に参加してくれた。衣食に何の不自由もない日本のお年寄りが、これほどまでに外国の青年が興した事業を支持し、信じてくれたことで、私の信念はいっそう固まった。
会社が立ち上がると、一番重要なのは、会社の経営管理である。会社は日本にあるから、当然、日本の制度に則って運営しなければならないが、日本式経営術を完全に模倣するのもよくない。例えば日本の企業では、年功序列という管理パターンが若い社員の成長を阻害し、若い人の積極性を十分に発揮させることができない。そこで私は中・日・米三国の異なる企業経営の中で良いもの、つまり、アメリカの企業における個人の発展を重んじる理念、日本の企業における団結と協調・協力の精神、中国の企業における親密で打ちとけた人間関係、これらを一つに結びつけて経営管理を行ったのである。
日本の企業管理はきわめて細かく、しかも効果的である。会社にはいま、日本人の部長が3人いるが、仕事もよくできるし、中国人社員とも打ちとけて付き合っている。中国の企業のこうした打ちとけた人間関係が、多くの人を引き寄せている。「この会社に来たのは、お金のためだけではない」と言う社員もいる。もとの会社での給料の方がいまより高いという人もいる。彼らは会社の将来性に着目し、会社の暖かい雰囲気に魅せられている。
競争の激しい日本のソフト市場で会社が発展するためには、何よりも「人間の要素」、つまり人材を重視しなければならない。中日両国の社員が家族のように、互いに尊敬し合い、助け合ってこそ、ソフト業界で我々自身の新天地を切り拓くことができるのである。
(構成・張哲)
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