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上海の中心部をくねくねと流れる蘇州河は、かつて水陸交通と貿易・商業をむすんだ黄金の水路であった。河沿いには古びた倉庫が多く、その歴史的考証も難しくなっている。わかっているのは、ここに埠頭ができてから、貨物の物流倉庫が置かれたということ。1930年代、市の中心部にあたる蘇州河下流には、長さ5キロにも満たない河岸に、100あまりの倉庫が密集していたという。 |
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古い倉庫と新しい建物が対照的な蘇州河の河辺 |
西蔵路橋北岸に並ぶ四列の倉庫は、かつて旧中国銀行が抵当物を保管していたところだ。その南岸は濃灰色の綿糸倉庫で、建設されてから70年間、いまも用途は変わっていない。四列の倉庫と河をへだてて向き合っている。また、そのほかにも赤褐色の倉庫が緑の木々に映えている。もっぱら金属用品を保管するところだそうだ。
倉庫の多くは用途が異なるだけでなく、所有者も異なっている。建物の形や風格、色彩もさまざまである。今日まで残されているものは、頑丈かつ美しい風格を兼ね備えている。これらの倉庫建築からは、中国と西洋が混ざり合い、すべてを吸収するという上海特有の性質が感じとれる。
ここ百年来、現実的な上海人の目には倉庫はただの倉庫でしかなかったが、2年ほど前からある芸術家が、ここに住みつき始めた。昔の物流の中心が、だんだんと創意あふれる泉になった。
倉庫めぐりに適した「足」は、自転車である。沿道は曲がりくねり、広いところは車2台がすれ違えるが、狭いところは自転車がようやく通り抜けられるほどだ。西蘇州河路1131号の上海飼料公司(会社)の倉庫は、こうした河沿いの小道に面して建てられている。鉄筋レンガ造り、二階建ての穀倉として21年に設けられた。映画『蘇州河』(邦題『ふたりの人魚』、2000年)は、ここでロケが行われて脚光を浴びた。しかし倉庫が本当の意味で有名になったのは、画家たちがここに住みついたからだ。
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登コン艶さんの仕事部屋は、上海灘のかつての有力者・杜月笙の穀倉だった |
1131号を訪れてみた。アーチ型の白い門をくぐり、木製の階段を上った。二階に上がると、今までに見たこともないような情景が飛び込んできた。広さ300平方メートルの仕事部屋には、昔の上海映画によく見られる旧式の会議机がポツンと置かれていた。画家の丁乙さんが配した唯一の家具であった。広々とした空間にあっては、主役はもはや人間ではなく、壁沿いに一枚一枚立てかけられた「大作」だった。
2年前、丁乙さんも自転車に乗り、河沿いのここを探し当てた。「思わず目が輝きましたよ」と彼は言う。若き芸術家の懇願に対して、所有者である飼料公司は一も二もなく同意した。その後は半月もせずに契約書が交わされて、丁乙さんは引っ越してきた。家賃は月2500元(1元は約15円)。上海市街地で一般的なマンションを借りる場合の金額にあたる。
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「穀倉アトリエ」で才能を磨く丁乙さん |
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スイス人・ローレンツさんの「香格納画廊」の一角 |
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張恩利さんの仕事部屋は、1921年に建てられた古い倉庫を利用したもの。イギリス人デザイナーの設計だ |
引っ越してからの最初の作は、高さ2・6メートル、長さ13メートル。昨年、横浜で開かれたモダン・アート展に出品されて、評判となった大作だ。昔から上海の画家たちの夢は、芸術機構「油絵彫刻院」で仕事をすることだった。なぜならそこは、どの芸術家にも一部屋40平方メートルのアトリエをあてがったからだ。丁乙さんは、その7倍にもあたるゆったりとした倉庫のアトリエを手に入れた後、喜びを抑えきれずに仲間たちに話して聞かせた。その後、画家の張恩利さんや申凡さんらが相次いで入居した。上海では有名な二つの画廊「東廊」と「香格納」も1000平方メートルの場所を借りた。昔日の穀倉が、芸術作品であふれる倉庫になったのである。
「古い倉庫の構造は、大きなアトリエにするのにピッタリだ。室内は柱がなく、天井が高く、空間がとても広い」というのが、画家たちの共通の認識だ。「20メートル退いてみたり、一歩一歩近づいてみたり……。私の絵はこうやって書き上がるのです」と丁乙さんは言う。
張恩利さんは、倉庫の背後にある歴史に関心を寄せている。窓辺にたたずみ、蘇州河の流れを見つめる彼は、まるで厳しい歴史学者になったかのようだ。「ここにいて絵を書くと、上海に近づいた気がする。上海の心臓部にいるんだっていう……。倉庫は工業化時代の建物でもあり、とても複雑な思いです。つまりこれが上海なんです」
最初に、古い倉庫を知らしめるという奇抜な行動に出たのは、台湾の建築デザイナー・登鍄艶さんだった。99年、登さんは蘇州河南岸にあった灰色のレンガ造りの倉庫を選び、自らの環境設計公司を開いた。この33年に建てられた穀倉は2階建てで、延べ床面積2000平方メートル。登さんはそれをポスト・モダン風のしゃれた空間に改造した。営業面でも功を奏し、クライアントがここに来るなり一目で気に入り、契約しやすくなるのだという。
西側の倉庫が取り壊される時、自分の倉庫を残すのに成功したのも自慢の一つだ。両岸の倉庫密集地区の将来については、構想もある。つまり、ここを上海のSOHO(スモールオフィス・ホームオフィス、自宅などに小さなオフィスを開くビジネス)にして、芸術家たちに安く提供し、芸術的な雰囲気をつくり、力のある企業を引きつけ、ビジネスと芸術的なムードの共生を実現させる、というものだ。
しかし、すべての倉庫所有者がこう考えているわけではない。昨年初め、丁乙さんは「夏までに立ち退きを要求する」という所有者からの通知を受けた。すでに某不動産会社が、この地区の開発を計画しているという。実際、上海が蘇州河の改善計画をスタートさせた96年以来、両岸の古い工場や倉庫は商品住宅(分譲マンション)に取って代わった。地価は、少なくとも500元は上昇した。
取り壊すか、保存するか、それとも発展を推し進めるか? これは上海が都市現代化建設を進める中で、必ずぶつかる難題だった。昨年秋には、一部の倉庫について論争がおこり、上海の未来都市像への関心も高まった。
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新しい生活はすさまじい勢いでやってくる
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中国歴史文化都市研究センター主任で、同済大学の阮儀三教授は、こう指摘した。「蘇州河畔の古い建物は、上海の都市文化を包み込んでいる。その歴史的価値のある古い建物を、どうやって合理的に開発利用するか、河畔の芸術家たちは人々に有益な方法を示したのではないか」
上海は中国における工業都市のさきがけである。工業都市の中では、生産額が常時首位を独占していた。
上海社会科学院・上海史専門家の鄭祖安氏は、「近代の発達した産業経済は、上海のきわめて重要な特徴だ。歴史の証となる一部の産業建築は保護するべきで、それによって都市の特徴を保ち、歴史文化の内容をふくらませるのだ」と指摘する。
夕陽の中で、古い倉庫の崩れかかった外壁を眺め、芸術家と歴史学者の「心」を思った。河畔をSOHOに変えるという構想は彼らの善良な願望から生まれたものだ。それは、こうも言い切れるだろう。こうした前衛的な建物の保護利用を重視するのが、都市発展の「障害物」になるべきではない、と。
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