1942年、東京生まれ。58年、「民間大使」といわれた父、西園寺公一氏とともに、北京に移住。北京市第25中学初級部3年入学、62年、北京大学経済学部政治経済科入学。67年、北京大学政治経済科卒業。71年、朝日新聞東京本社入社、調査研究室、文化企画局、総合研究センター主任研究員などを経て、2002年10月、定年退職。

 現在、日中友好協会全国本部参与。主な著書に『青春の北京』(中央公論社)、『中国辺境をゆく』(日本交通公社出版局)、『ケ穎超』(潮出版社)などがある。

 1958年はあっという間に過ぎた。わからないことだらけだったが、私は中国社会に圧倒されるような熱気を感じた。

 59年は建国10周年(中国では建国記念日を「国慶節」と呼ぶ)の年ということで、熱気は最高潮に達しようとしていた。この年の9月、私は北京第25中学の高校一年へと進んだ。10人くらいは中学3年の時の仲間だった。高校生になった私たちの最大の任務は、天安門広場で行われる国慶節のパレード参加であった。

 パレードの内容は二つに分かれていた。軍事パレードと大衆パレードである。後者はまた労働者、農民、文芸、スポーツ、学生など各分野の隊伍に分かれていた。それぞれが趣向を凝らしてパレードするのである。

 私たちは「亜鈴操遊行」、つまり亜鈴を両手に持ってさまざまな動作をしながらパレードする隊伍に参加することになった。亜鈴といっても亜鈴に似せた木製の特注品だ。これを打ちつけると、「カチカチ」と心地よい音がする。動作はもちろんのこと、何千人の「カチカチ」が少しでもずれてはいけない。

 残された時間はわずかだった。集中して練習を重ねなければならない。当日は各国首脳が天安門上に勢ぞろいするそうで、中国の威信にかけて成功させなければならないと、毎日のように先生も学校の党委員会書記も檄を飛ばしていた。

 亜鈴とスポーツウエアが全員に配られた。が、私はもらえなかった。担任の蕭先生は、これは中国人民が行う行事だ、君は当日お客さんとして天安門下に作られた「観礼台」に招かれるので、と言った。

 私は疎外感に襲われた。やっと中国の学友たちと一体感が持てるようになったのだ。わたしもぜひ一緒に参加したかった。教室はシーンとなった。気まずい空気が流れた。

 その時、「ハイ」と大きな声がした。級長の李永川君が手を挙げて言った。「西園寺君も参加させるべきです。日本人だけどわが校の学生です。仲間です」。

 「ハイ」「ハイ」と何人も手を挙げた。劉君も、王君も、楚君も伸び上がるように手を挙げていた。「ぜひ一緒にパレードしたいんです」「ここにいる全員参加すべきです」「私たちみんなで学校指導部に建議書を書いて、西園寺君のこと頼みます」……。

 私は胸が熱くなり、涙がこみ上げてきた。

 蕭先生は次々に発言する学生を見ながら困った顔をしていたが、フゥーと大きく息をすると言った。「みんなの意見はわかりました。気持ちは私も同じです。その建議書に私も署名します」。一瞬おいて、大きな拍手が巻き起こった。

 数日後、蕭先生はニコニコしながらみんなに向かって言った。「良い知らせです。西園寺君のパレード参加が許可されました」。「ワァー」とみんな立ち上がった。私は握手責めにあった。「がんばるぞー」李君が叫んだ。「がんばるぞー」と私も叫んだ。

 国慶10周年当日は快晴に恵まれた。私たちは放課後と休日に特訓した成果を十分に発揮した。私たちの「亜鈴操」は一糸乱れることなく無事終わった。

 

 

 

 

【略歴】西園寺一晃
1942年、東京生まれ。58年、「民間大使」といわれた西園寺公一氏とともに一家をあげて北京に移住。北京市第25中学初級部三年入学、62年、北京大学経済学部政治経済科入学。北京大学四年在学中に文化大革命勃発。67年、北京大学政治経済科卒業。71年、朝日新聞東京本社入社、中国アジア調査会、平和問題調査室、調査研究室、文化企画局、総合研究センター主任研究員などを経て、2002年10月、定年退職。
現在、日中友好協会全国本部参与、東京都日中友好協会副会長、北京大学日本研究センター在外研究員。主な著書に「青春の北京」(中央公論社)、「中国辺境をゆく」(日本交通公社出版局)、「ケ穎超」(潮出版社)など。