1978年夏、湖北省随州市近郊で、考古学者が戦国(前475〜前221年)時代初期の曽国(南方姫姓諸侯国)の支配者の墓――曽侯乙墓を発掘した。そこからは、礼器、楽器、兵器、車・馬器、金玉器、漆木製工具、竹簡など1万5000余点の文物が出土した。非常に珍しいものも発掘され、現在、湖北省博物館に所蔵されている。中でも、今回紹介した曽侯乙墓の編鐘は、正真正銘の逸品である。
同編鐘を支える台は、高さ265センチ、長さ748センチで、三層八組に分かれ、合計65の鐘が付いている。最大の鐘は高さ152・3センチ、重量203・6キロ、最小の鐘は高さ20・4センチ、重量2・4キロである。編鐘そのものの重量は、合計約2567キロになる。また、木素材を保護する銅製のカバー、人形、柱、それに鐘を掛けるかぎなどの装飾品は、合計1854・48キロである。
同編鐘が見せる精緻な鋳造工芸は、戦国時代の青銅芸術が絶頂期に達したことを証明していて、中国古代文明の栄光の象徴となっている。
同編鐘には、五オクターブと四音の音域、一二の半音があり、調音、変調が可能で、ハ長調の五音、六音、七音音階の楽曲を演奏できる。編鐘、その台、鐘を掛けるかぎには、合計3755文字の銘があり、当時の音律名称やオクターブ、各国音階の相互関係などの楽律理論を知るための貴重な記録になっている。
曽侯乙墓の編鐘は、戦国時代の中国音楽、音律学、声楽学、冶金鋳造などの多くの成果を反映していて、歴史上の疑問を数多く解決した。例えば、当時の中国に、すでに七音音階が存在していた事実が証明された。また、鐘に残る平均律に相当する合計28の名称によって、もともと戦国末期にギリシャから伝えられたとされた説が覆され、西周(前1066〜前771年)初期以前に平均律が成立していたことも証明した。
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