貴州省の東部、鎮遠県のブー陽河から上流へ約50キロの地点に、同省の漢方薬材の基地――施秉県がある。ミャオ族が主に居住している。ミャオ族は歌や踊りに長けていて、新年や祭日をはじめ、宴を開いたり、家を建てたりする際に、歌を歌って祝うのだ。とくに婚礼の時になると、双方の歌の師匠が古代の婚礼習俗を伝える「開親歌」を披露する。歌をもって返答し、三日三晩歌い続ける人もいる。

 
   
 
歌の師匠の「ノート・パソコン」――歌棒

牛大場鎮の「薬材大王」張代金さんの薬材園

 ミャオ族には固有の文字がないため、民族の歴史文化を古歌にたくして歌い継ぎ、今に残した。たとえば「開親歌」は何千行、何万行にも上る「歌詞」が、歌の師匠の口伝えにより、各村落に広まった。さらにその驚異的な記憶のほかに「歌棒」の存在がある。

 県城(県庁所在地)に住む呉朝貴さん(85歳)は、有名な歌の師匠だ。秘蔵の歌棒を取り出して、その特徴を教えてくれた。長さ36センチ、幅2センチの長方形の竹で作ったもので、A面には10、B・C面には各9つ、合わせて28の符号が刻まれている。符号1つに6首の歌(三問三答)が示されるので、歌は全部で168首。しかし、歌詞の長さは不特定で、問いは短く、答は長い。時には師匠が即興で問答するため、長いものなら数万行の歌詞が続く。

 

 呉朝貴さんは言う。「歌棒は村によって違います。長いものや短いもの、四角いものや丸いもの、木製もあります。でも、刻まれた符号は大同小異。互いに歌を交わし合い、後世に伝えたためです」。研究によると、歌棒は木を刻み、事物を記録した古代の習慣から生まれた。「開親歌」が歌うミャオ族の求婚や嫁取り、里帰りなどの婚姻のプロセスは、男性主権制度を表している。歌棒は母系社会から父系社会へと移り変わる、その過渡期の産物なのだ。

 歌棒に多く刻まれているのは、×、×、∧ という符号だ(図参照)。同じ符号でも、表現する意味は必ずしも同じではない。たとえば、A面第2段の符号は「銀」を代表するが、俗な意味では「姑母(父方の姉妹)は娘を舅父(母方の兄弟)の息子に嫁がせる時、銀300両を贈る」を表している。6段の符号は「結婚後、一家になった」を、B面8段の符号は「天秤棒で、一カゴのもち米と一羽のオンドリを担いだ」、C面2段の符号は「舅父が大工に手間賃を払う」、A面8段の==は「一包みの砂糖と茶」、B面3段の=は「しゅうとが里帰りする嫁に銀2両をやる」、C面7段の符号は「十頭の牛」を、それぞれ表す。

 符号の意味は異なるが、歌の師匠はそれを見るなり、何を歌うかわかるのだという。そこから現代のノート・パソコンを連想した人がいる。冗談なのだが、歌の師匠の「元祖ノート・パソコンだ」というのであった。

民族文化がとけあう竜塘村

 ミャオ族は自らの文化を大切にするとともに、他民族の文化を決して排斥しなかった。県城の南部、40キロの地点に「竜塘村」という村がある。ミャオ族と漢民族の文化がとけあう光景は、ある意味で人々を驚かせている。

竜塘村ミャオ族女性の頭の飾り

 村の前には、小川が流れ、橋が懸けられ、水田が広がっていた。その昔、村はずれの池には、竜が潜むと言い伝えられた。その池の名は「竜塘」(竜の池)。村人たちは、竜が穏やかな気候と村の安泰をもたらしてくれると考えていた。ところがその後、ある嫁が赤ん坊のオムツを洗ったところ、竜はその臭さに耐えきれなくなって逃げ出した。村人たちは竜のしかえしを恐れて、土を運んで池を埋めた。それが水田になったのだという。

 竜塘村に住む200戸は、その98%がミャオ族だ。姓の多くが「竜」「タイ」だ。ミャオ族の他村の民家は「吊脚楼」(高床式の住居)だが、ここの民家は黒いレンガに白壁である。軒先が反り上がっていて、まるで江南地方の漢民族の村のよう。玄関の横額には「樹徳」「延陵第」などの大文字が記されていたが、それも漢民族の儒教文化を代表している。

 また、中庭を持つ建物や玄関間を支える柱、壁に描かれた彩色画、木彫の窓なども漢民族特有の建築である。その一方で、石壁の上に建つ木造楼閣や柱で支える吊脚建築、廊下に造られた「美人靠」(もたれかかりの欄干)などは、典型的なミャオ族の伝統である。

竜塘村の民家を眺めた

 村人の服装は、周辺に住むミャオ族のものと変わらない。ふつうミャオ族の女性は、高く髷を結い、細長い銀のかんざしで留めるというヘアスタイルだ。ここに来た日本人観光客の多くは、それを見るなり「日本の女性とそっくりだ!」と驚くのだという。

 竜塘村の民族文化の融合は、どのように培われたのか? 村の長老によると、この村を開拓し、基礎を築いたロ「老抗、竜九契という二人が、江西省から漢民族の文化を持ってやってきたという。また別の説に、清代に当地のミャオ族が武装蜂起をした。戦いに長けた女性首領の雷名は天下にとどろいたが、封建政府に鎮圧された。その後、長らくここに駐留した官軍とミャオ族女性が結ばれたため、官軍がもたらした漢民族文化と地元のミャオ族文化が融合した、というものがある。

漢方薬材を栽培して

漢方薬材を陰干しにする阮道選さん(写真・呉寿旭)
ミャオ族の歌の師匠・呉朝貴さん(左)。県の文化担当者に歌棒の符号や内容を説明する

 施秉県は、貴州省における漢方薬の栽培基地だ。全県農家の半数が漢方薬を栽培しており、その面積は3万5000ムー(1ムーは約6・67アール)。主な産物は太子参(ワダソウ)で、全国の4分の1を生産している。何首烏(ツルドクダミ)、元胡(ムラサキケマン)などの品質が良く、天麻(オニノヤガラ)、杜仲(トチュウ)、霊芝(レイシ)は「貴州省の三宝」と称されている。

 県城の西北39キロの牛大場鎮は、早くから薬材を栽培してきた。薬材にまつわる話もとくに多い。「薬材大王」と呼ばれる張代金さんの薬材園を見学する際、案内してくれた蕭慈軍・副鎮長はこう言った。「黔山に無用な草などありませんよ」。山上や田のあぜ、溝や谷間などに生える野草は、ほとんどが漢方薬の材料だ。彼はふと一本の野草をつかみ、「これは車前子(オオバコ)です。その種子は解熱と解毒によく効き、炎症を抑え、利尿作用もある良薬です」と言った。

 貴州省で生産される薬材は、深山幽谷の複雑な地形や、多雨多湿で寒暖の差の激しい特有の気候にめぐまれている。「ひと山に四季あり、十里に同じ天なし」という説がある。また「酸性の土壌が、ここの薬材を豊かにしている」とも言われる。

呉朝貴さんが秘蔵する歌棒

 興味深いのは「牛大場」という鎮の名が、もともと薬草の名前にちなんでいるということ。1935年、毛沢東率いる労農紅軍がここを経由して遵義へと北上する際、ある部隊と負傷兵がここに駐留をした。紅軍の漢方医が山でたくさんの薬草「牛大力」を採取し、乾燥させてから携えていった。それは打撲や傷を治し、解毒にも効く良薬だった。当時、そこには地名がなかったので、紅軍は後々探しやすいようにと便宜上の名前をつけた。それが牛大場、つまり「牛大力が多く産出される場所」という意味だった。

 険しい山に登り、薬草を取るのは大変だ。それに今では生態環境保護のため、山での薬草採取が禁止されている。そのため村人たちは、薬草採取から栽培へと切り替えたのである。

 だが、薬草栽培も決して楽ではなかった。1990年代初め、福建省、浙江省の農民が滋養強壮に効くというワダソウを栽培し、相当な利益を上げた。その噂を聞いた牛大場鎮の指導者たちが視察に出向いたところ、牛大場の自然環境とじつによく似ていた。そこでワダソウを移植しようと持ち帰った。はじめは経験がなかったので、農家30戸で試験栽培したところ、張代金さん以外はすべて失敗。それでも落胆せず、県の科学技術部門の指導により貴州省農業科学院、薬用植物園、貴州省中医(漢方医)学院の専門家らを招き、アドバイスを受けた。そして2年後、経験と教訓の努力を積み重ねて、ついに移植に成功したのだ。

恵水のミャオ族の少女(東京大学総合研究博物館・提供)

 現在、牛大場鎮の13の村では、ほとんどが薬材を栽培している。張代金さんは一人で四つの薬材園を経営し、総栽培面積は300ムーあまりに上る。多雨多湿の気候では摘み取ったばかりの薬草もカビやすいと、60万元以上の資金を調達。上海から設備を買い取り、薬材の加工工場を興して品質を保証した。また、積極的に市場を開拓しつつある。貴州省をはじめ上海、深セン、四川、湖南の各省・市の製薬工場と提携し、牛大場の薬材販売を推し進めている。

 薬材栽培は、ここを豊かにしたばかりでなく、村人の心も磨いた。阮道選さん(46歳)は農家だったが農閑期はやることがなく、賭事に明け暮れていた。しかし張代金さんが豊かになったのを見て、94年からは薬材栽培を請け負った。貸付金は10万元。100ムー以上の土地にワダソウ、ムラサキケマンなどを栽培した。結果は大成功で、2年目にはすっかり貸付金の返済を終えた。頭のいい彼は、その後も薬草苗畑と薬材加工工場の運営、購入したトラックでの運送業務などを次々と展開した。

 彼は裕福になってからも、同郷人を忘れなかった。慈善事業に関心を持ち、貧しい子ども40人に就学の資金援助をした。また、中学への通学路にコンクリートを敷くための寄付をした。今では、牛大場鎮の商業会議所会長として同会議所を組織し、浄水場や道路の拡張工事に出資をして、地元の人たちの称賛を集めているのである。

【ミニ資料】
 貴州省の概況 略称は「黔」または「貴」。亜熱帯温暖湿潤モンスーン気候地帯にあり、冬温かく、夏涼しい。年平均気温は摂氏15度。年平均降水量は、1200ミリ。人口は3525万人。漢族以外に、ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、イ族などの少数民族が1333万9000人(省人口の37.8%)居住している。