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中国のような大きな国の、また6600万人もの党員を擁するその政権党の指導者が交代する時には、当然、世界の注目が集まる。昨年11月15日、中国共産党の総書記は、江沢民氏から若い胡錦涛氏に交代した。
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2002年の全国人民代表大会で、国家副主席として少数民族の代表と握手する胡錦涛氏 |
しかし、多くの読者には、胡錦涛という人がいったいどんな人物なのか、あまり知られていないのではないだろうか。日本の読者の中にはまったく知らないという人もいることだろう。
そこで本誌はここに、あまり知られていない胡錦涛氏の生い立ちとその素顔を紹介することにした。それが読者の参考になれば幸いである。(以下、文中敬称略)
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胡錦涛の本籍は安徽省の東南にある績渓である。績渓は豊かなところで、人口が多く、開けた土地である。清末民初の大富豪、胡雪岩や、文学革命を唱えた大学者の胡適ら、「胡」姓の著名人が多くこの地から輩出した。
しかし、胡錦涛の曽祖父の代に、一家は績渓を去り、江蘇省の泰州に移り住んだ。そして泰州で茶の葉を商う店を営み、生計を立てた。
1949年の新中国の成立前後に、胡錦涛の父の胡静之は、泰州の茶葉同業組合の重要人物になっていた。だが、胡錦涛の母の李文瑞は29歳の若さで不幸にしてこの世を去った。それも1949年のことであり、胡錦涛はわずか7歳だった。
小さいころの胡錦涛はどんな子だったのだろう。幼なじみや同級生の記憶によると、彼はとても落ち着きがあり、穏やかでおとなしい性格だった。学校の成績はずっと良かったという。
胡錦涛は、泰州の大埔小学校に通った。当時の先生は、彼についてこんなことを今もかすかに覚えている。
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胡錦涛総書記がかつて学んだ泰州中学 |
ある日の授業で、先生がちょっと教室から出て行った隙に、ある生徒がこのときとばかり騒いで教室の秩序を乱した。放課後、別の生徒がこれを先生に密告したため、騒いだ生徒と密告した生徒との仲が悪くなり、互いに口をきかなくなった。このとき胡錦涛は、こうしたことがクラスの団結や学習に悪い影響を与えると考え、先生に事情を説明して、双方の関係を調停するよう提案した。先生もこれに賛同し、先生と胡錦涛がいっしょに仲裁した結果、双方は仲直りしたのだった。
1953年、大埔小学校を卒業した胡錦涛は、私立の泰州中学に進学した。ここは名のある学校で、清代の偉大な劇作家、孔尚任が彼の不朽の名作『桃花扇』の第二稿をここで完成させた。
中学時代の胡錦涛は、「操行」(品行)の科目がずっと「甲」で、3年生のとき、中国の進歩的な青年の組織である中国共産主義青年団(共青団)に入団した。この年齢で入団できた者は数少ない。
当時の陳先生の思い出では、中学時代の胡錦涛は、芝居や「説唱」(語ったり歌ったりする民間文芸)、舞踊などの文化活動を好み、あるときには彼自身で漫才の脚本を作り、同級生といっしょに街頭で演じて見せた。その漫才は大変おもしろく、市民は足をとめ、人だかりができたほどだった。
1956年、胡錦涛は江蘇省立の泰州中学高等部の試験に合格した。彼はクラスの中でもっとも年下の14歳だった。しかし、最年少の彼が、後には級長になった。当時、クラス担任だった沈進林先生はこの最年少の級長をこう評価した。
「政治的自覚は高く、級友をまとめて各種の活動を展開することができ、努力して勉強し、良くないことに対しては、直接、批判的意見を提起することができる」
当時の先生の中で、沈先生は性格がまっすぐで、慈愛に富んだ人だった。彼の学問や道徳心は、学生に対し、当時もその後も良い影響を与えた。2年前に死去したが、それまで胡錦涛はずっと沈先生と連絡があった。10年以上前、胡錦涛が中国共産党のチベット自治区第一書記を勤めていたとき、沈先生に出した一通の手紙の中でこう書いている。
「もし、私の仕事が少し良い成績をあげているとすれば、私を育てた母校のおかげだと言えます。泰州中学の厳格な教育や規則が私に深い印象を与え、後の私の学習や仕事に影響を及ぼしました」
現在、泰州中学の校長室に勤める蕭先生は、当時の胡錦涛に関するこんな話をいまも覚えている。
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泰州中学には「安定書院」という建物があり、文化的な雰囲気が漂っている |
1958年に、学校は学生の「下郷労働」を組織した。「下郷労働」とは、社会主義経済建設の中で、農繁期に学生たちを農村に行かせ、農作業を手伝わせることをいう。
このとき、胡錦涛のクラスの中に、農民の落花生を食べた学生がいた。校長は「規律違反だ」としてクラス担任の先生を監督が甘いと批判した。すると胡錦涛は、それは級長である自分が責任を果さなかったからであり、責めを負うのは自分であってクラス担任のせいではない、身を挺して主張した。校長は、この年の若い級長が敢えて責任をとろうとしているのを見て思わず嬉しくなり、それ以上、なにも責任も追及しなかった。
また蕭先生はこんな興味深い思い出も語ってくれた。
胡錦涛は芝居が好きで、いつもは二枚目の若い男役を演じていた。しかしあるとき、代役で女形を演じたが、それも大変きれいだった。またあるとき、『採茶捕蝶』(茶摘女たちが蝶を追う舞踏)の中で、胡錦涛は花の精を演じ、満場の喝采を博した。
泰州は京劇の名優、梅蘭芳の故郷であり、ここの人々は生まれつき、芝居が好きで、芝居を演じることができる人も少なくない。芝居や歌舞などの文芸活動(それには西洋のものも含まれる)に対する胡錦涛の愛着は、その後の彼にずっと変わらず、位が高くなったからといってそれへのこだわりが変わることはなかった。多分、こうした趣味のせいで、彼は青少年や普通の大衆に容易に近づくことができたのだろう。
1959年の夏、17歳の胡錦涛は優秀な成績で、中国の理工系の最高学府である北京の清華大学の試験に合格し、水利工程学部の河川中枢発電所課程を専攻した。
当時、清華大学は6年制だった。大学時代の6年間、胡錦涛の学業の成績は、特に優れていた。5点満点で一科目だけが「4」だったが、その他はオール「5」だった。
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国家副主席として、国連のアナン事務総長と会見した胡錦涛氏 |
在学時代、胡錦涛は大学の文芸活動にも積極的だった。学生文芸工作団舞踊隊の中の共青団支部書記に任じられたこともある。その後の20年で彼がこの共青団の最高指導者となろうとは、このとき誰も思わなかった。
この学生文芸工作団舞踊隊の中で、胡錦涛は後に夫人となる劉永清と知り合った。彼女は眉目秀麗でやさしく、上品だった。2人は同級生で、2人ともクラスの中では年の若い学生だった。
卒業後、2人は結婚した。1968年、胡錦涛が環境の厳しい中国の西北部への仕事に赴くと決めたとき、妻の劉永清は決然と、北京での彼女の仕事や生活を投げうって、夫に同行した。
2人の間には男の子と女の子の二人の子どもをもうけたが、いまは2人とも成人し、病院と大学でそれぞれ仕事に従事している。
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2002年5月、国家副主席の身分で劉永清夫人とともに訪米した胡錦涛氏 |
大学の中で胡錦涛は、知識と愛情を獲得したばかりではなく、政治面でも大きな収穫を収めた。1964年に中国共産党に入党し、あわせて学生政治補導員に任じられたのである。当時、学生党員は少なく、胡錦涛が入党できたのは、彼が学問も品行も優れた人物だったからに違いない。
卒業後、胡錦涛は大学に残って教師となり、引き続き学生補導員となった。この学生補導員という職は、当時、清華大学の学長をしていた有名な教育家の蒋南翔がつくったもので、補導員となった高学年の学生や若い教師に対して、彼らの社会管理能力や個人の思想の質を鍛錬するものだと、蒋学長は考えた。後に形づくられた胡錦涛の仕事のスタイルは、このときの鍛錬と切り離すことはできないという人もいる。
1968年から、大学は「文化大革命」のため授業はなくなった。教師はすることがない。無駄に時間を浪費するのを嫌った胡錦涛は、仕事をさせてほしいと要求した。そしてついに、中国の西北部に建設中の水力発電所の現場に行って「鍛錬を受ける」許しを得た。
劉家峡水力発電所は、黄河上流につくられる最大の発電所で、甘粛省にある。昔から「春風度らず玉門関」(唐代の詩人、王之渙の「涼州詞」の一節)といわれ、昔も今も、甘粛省は中国の「第三世界」に属する。物質的にも文化的にも立ち遅れているうえ、「文革」による混乱で、当時の建設工事現場の環境はいっそう劣悪だった。
胡錦涛はここで、6年間の「鍛錬期間」を過ごした。その間に彼は技術員、秘書、党の下部組織の副書記などの職を歴任した。
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2002年2月22日午前、清華大学でブッシュ米大統領と握手する胡錦涛氏 |
1974年、胡錦涛は甘粛省政府の建設委員会に転勤し、秘書、計画管理処副処長を歴任した。これは彼の人生における一つのターニング・ポイントとなった。
この時期、彼は農村の民情調査を行った。彼は農家に住み、昼は出かけて人の家を訪問し、話を聴き、夜はそのメモを整理して報告書を書いた。時には旧式のガリ版を切って、数百部印刷しなければならなかった。このため明け方まで徹夜することもあった。
このため後には疲労が蓄積し、病気になったが、それでも彼は休まず、薬を飲みながら農村での仕事を続け、任務を完成するまでやり遂げた。
1976年、10年にわたる「文革」の動乱はようやく終わった。真っ先にしなければならないのは、人材の育成と幹部の再配置だった。名誉回復したケ小平が奔走し、党と政府の管理部門に対し、思想も正しく能力もある「徳才兼備」の青年たちに重要な任務を大胆に与え、破格の抜擢をするように求めた。これは、胡錦涛のような若い幹部が頭角を現すのに、歴史的なチャンスを与えた。
1980年、胡錦涛は甘粛省建設委員会の副主任になった。彼は政府の中級幹部になったのである。
当時、甘粛省建設委員会のトップである主任は、後に中国の党と政府の最上層に上り、「元老級の人物」と称せられるようになった宋平だった。彼はすでに引退しているが、ずっと若い俊才を愛し、彼らの多くを発見し、後進として育成した。こうした人々が後に各クラス、各部門の指導者となった。胡錦涛も宋平の慧眼によって見出され、中央政界に推薦されたと言われている。
1982年秋、北京で開かれた中国共産党第12回全国代表大会(12大)に列席するよう推薦された。そして党の第12期中央委員会第一回全体会議(1中全会)で中央委員会候補委員に選ばれた。これは政治的栄誉であるとともに、彼が引き続き抜擢されて昇進するという信号でもあった。
果せるかな、北京から甘粛に帰ると、胡錦涛は建設委員会を去り、共青団の甘粛省委書記に任じられた。そしてほどなく北京に帰り、共青団中央書記処書記、中華学生連合会主席となったのである。
胡錦涛は母校の清華大学を出てから14年後に、再び北京に帰ってきた。このとき彼は40歳になっていた。
共青団中央本部は、北京・前門から東へ1キロほどのところにある。ここは人材や幹部を輩出するところで、ここから中国の党や政府の上層部に入った人も少なくない。例えば共産党総書記をつとめた、いまは亡き胡耀邦、現在、党中央政治局委員で中国人民政治協商会議全国委員会の副主席をつとめる王兆国らである。
1982年末、王兆国は共青団の中央書記となり、胡錦涛は書記処の7人の書記の1人となった。
1984年、王兆国は党中央弁公庁に転出し、そのあとを継いで胡錦涛が共青団中央第一書記の職に就いた。
1985年、胡錦涛は共青団を去り、中国西南部の貴州省党委第一書記に任命された。貴州省は、かつて彼が勤務した甘粛省と自然条件がよく似ていて、昔から「天に三日の晴なし、地に三尺の平なし、家に三分の銀なし」と描写されてきた。これはこの地が、雨が多く、山また山で、人々の暮らしは貧しいことを暗に喩えているのだ。
貴州省に着いた胡錦涛は、その地の具体的状況をはっきりつかむため、2年の間に、彼は86の県、市を駆け回り、農村や企業、学校、科学研究所に深く入って、第一次資料を掌握した。そのあと彼は現実に根ざした具体的な提案を出した。
彼の指導の下で、党と政府は共同で、「教育を発展させ、知力を開発し、貴州経済を振興し、貴州を豊かで強い省にする」という計画を策定した。その後の実践で、この計画は貴州省の実際に符合していたことが証明された。
1988年10月、貴州大学で一部の学生たちの騒ぎが起こり、街頭をデモ行進する事態となった。この種の事件は中国では、いつも発生するものではない。まして貴州省ではもっと少ない。このため当地の人々を震撼させた。
しかし胡錦涛は最高責任者として非常に冷静だった。彼は幹部たちに、学生に対して「情をもって動かし、理をもって諭せ」と指導した。彼自身も自らデモの学生たちの中に入り、彼らから事の経緯を聴き、学生たちの意見を求め、そのあとで自分の意見を言った。
最初から最後まで、学生に対する彼の態度は誠実で、性急ではなかった。こうした穏やかな、理性的な雰囲気の中で、学生たちの怒りや恨みは解消することができたのだった。
1988年末から1992年までの期間、胡錦涛はチベット自治区の党委第一書記をつとめた。
チベットで胡錦涛は、現地のチベット族幹部や広範な人民としっかり団結するとともに経済を発展させ、人々の生活条件を不断に改善した。同時に、社会秩序を安定させ、人々の安全を保障するためにきわめて大きく貢献した。
貴州とチベットの7年間で、胡錦涛は試練をくぐり抜けたように見える。1992年、中国共産党の第14回党大会で、胡錦涛は、中国共産党の最高指導中核である中央政治局常務委員会のメンバーに選出された。ときに胡錦涛、49歳。7人の常務委員の中で最年少だった。
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2002年12月2日、国家副主席としてロシアのプーチン大統領と会見した胡錦涛氏 |
中央政治局常務委員会入りしたあと、胡錦涛は国家副主席、中央軍事委員会副主席に相次いで選ばれた。このため人々は、胡錦涛が江沢民の後を継ぐのではないか、とぼんやりと意識し始めた。
胡錦涛は中央党学校の校長を十年近く兼務し、多くのことを実行した。例えば外国の専門家や学者、政府高官を招いて講義や講演をしてもらったり、外国の異なる理論や学派の書籍や教材を導入したりした。
中央党学校の教師、盧先福は、胡錦涛を評してこう言っている。「彼は実務家であり、同時に改革精神を持ち、新たな考えを打ち出す人でもある。彼は理論研究を重視し、自由な討議を提唱する。彼は原則を重んじるが、柔軟で、他の人の意見もよく聴く人だ」
胡錦涛が担当している「幹部工作」の分野でも、明らかによい成績を収めた。例えば、5年間も試行されてきた『党と政府の指導幹部選抜任用工作条例』が、彼の努力で2002年に、ついに正式に公布、施行された。
胡錦涛は、腐敗した幹部は選抜したり、重く用いたりしてはならないし、大言壮語ばかりして実際に仕事をしない者や国を誤らせ、民を誤らせる者も選抜してはならない、と提起した。彼は、その幹部が多くの人に是認されているかどうか、を重視しなければならないと主張した。これによって、官僚の意見だけで決まるという一面的なやり方を回避できるし、官僚同士がかばい合い、賄賂を贈って官職をもらい選抜されるということも防止できる。
2000年の下半期から2002年末までの間に胡錦涛は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの各大陸の17カ国を相次いで訪問した。彼の外交手腕と個人的魅力はすでにメディアで報道されている。
2002年11月15日、中国共産党の第16期一中全会で、胡錦涛は党総書記に選出された。
12月6日、胡錦涛は河北省平山県にある「西柏坡革命記念館」を視察したあと、こう呼びかけた。
「全党の同志、特に指導幹部はみな、全身全霊で人民に奉仕するというモットーを忘れず、終始変わらずにもっとも広範な人民のために利益をはからなければならない」
「下部に深く入り、大衆に深く入り、大衆の声に耳を傾け、大衆の苦しみに関心を持たなければならない。権力は民のために使い、情けは民にかけ、利は民のためにはかり、民衆を指導して幸福な生活をつくり出さなければならない」
十日後、全国組織工作会議で、胡錦涛はさらに一歩進んで全党の各クラスの指導幹部に対し、「モットーを堅持し、民のために政治を行え」と提起した。この「モットー」とは、中国共産党の規約に定められている「人民に奉仕する」ことである。
2003年の年が明けたすぐ後、胡錦涛は零下30度の極寒をものともせず、内蒙古に出かけ、労働者、農民、牧畜民の家を訪れた。農民のビニールハウスの中では、彼らの生活はどうかと問いかけ、民情を視察したのだった。
総書記就任後の胡錦涛の言動の特徴は、「まじめに実務を行い、民衆と親しむ」ところにある、と人々は感じている。
(本稿は、『新聞週刊』などの刊行された資料を参考に構成した。ここに感謝の意を表明する――編集部)
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