私は、昼食は学校の食堂でとっていたが、白米が消えた。野菜も極端に少なくなった。肉などほとんどお目にかかれなくなった。主食は毎日、トウモロコシの粉で作った饅頭かコウリャン飯。サツマイモだけという日もあった。

 食糧、油、たまご、肉などの配給制度が強化され、すべてキップ制になった。衣料や日用品も同じで、「工業券」というキップがなければ、シャツ一枚買うことができなかった。

 「百年来の未曽有の自然災害」。これが政府の説明だった。新聞を見ると北は旱魃、南は水害がひどく、それに各地で虫害や雹害が猛威を振るっていた。

 「国難に打ち勝つ」が合言葉となった。しかし現実は厳しかった。

 栄養失調が蔓延し始めた。はじめは顔や手がむくみ、そのあとやせ細ってゆくのがパターンだった。授業中、うつろな目の学生が多くなった。やがて、体育の授業が中止となり、勤労奉仕も試験もやめになった。

 そんなある日、担任の蕭先生がニコニコしながら教室に入ってきた。「みなさん、良い知らせです」。クラスに一枚の青いセーターが割り当てになったのだ。

 授業を中止して、セーターを誰がもらうのが適当かの討論が始まった。希望者が十人、名乗り出た。他の者は我慢の道を選んだ。

 十人が一人ずつ事細かに家庭の事情を報告した。ある者は母子家庭だった。ある者は父親が病気で大変そうだった。またある者は兄弟が多く、衣食にも事欠く状況らしかった。

 みんなの意見で、最終的に二人に絞られた。劉立元君は母子家庭で、母親も病気がちだという。王大民君は五人兄弟で、父親は病弱、もともと高校に進学できる状況でなかった。二人は譲り合ったが、一番必要な者が分配を受ける、それを公正に判断するのがクラス全員の任務であった。

 蕭先生はあくまで全員一致で決めると言った。結局、青いセーターは王君が射止めた。王君は涙を流し、みんなに深々と頭を下げた。

 次の日から私はひどい風邪をひいて寝込んでしまった。級長の李君は毎日見舞いに来てくれた。そんなある日、お手伝いのおばさんが「さっき、王大民さんという学生が来ましたよ」と教えてくれた。寝ているというと、見舞いの品を置いて帰ったという。

 私は新聞紙にくるまれた王君のお見舞いを開けて驚いた。ビニールに包まれたあの青いセーターが入っていた。「早く良くなって下さい」というメモとともに。

 

 

 

 

【略歴】西園寺一晃
1942年、東京生まれ。58年、「民間大使」といわれた西園寺公一氏とともに一家をあげて北京に移住。北京市第25中学初級部三年入学、62年、北京大学経済学部政治経済科入学。北京大学四年在学中に文化大革命勃発。67年、北京大学政治経済科卒業。71年、朝日新聞東京本社入社、中国アジア調査会、平和問題調査室、調査研究室、文化企画局、総合研究センター主任研究員などを経て、2002年10月、定年退職。
現在、日中友好協会全国本部参与、東京都日中友好協会副会長、北京大学日本研究センター在外研究員。主な著書に「青春の北京」(中央公論社)、「中国辺境をゆく」(日本交通公社出版局)、「ケ穎超」(潮出版社)など。