【上海スクランブル】


春風に誘われて江南を歩く
                             須藤美華

  千里鶯啼緑映紅
  水村山郭酒旗風
  南朝四百八十寺
  多少楼台煙雨中

朱家角のシンボル、放生橋

 唐代の詩人、杜牧が「江南の春」をこう詠んだように、上海近郊の江南地方を旅するなら、やはり春が最も良い季節と言われる。特に、最近上海の人々に人気なのが水郷古鎮で、酒屋の旗が今も風に揺れ、ゆるやかな時間が流れている。

 上海市中心部から最も近い水郷は「朱家角」で、虹橋空港から30キロほどの上海市青浦区にある。小さな水路が迷路のように街のなかを縦横に走る。水路には36の橋がかかるが、なかでも全長約70メートルの放生橋は上海地区最長の石橋で、朱家角のシンボル的存在だ。明代に建造された。橋の由来である、魚を逃がして功徳を得る「放生」という昔の風習も復活し、橋の袂では魚売りの声が響いた。

 「セットで3元」と言われて、小さな買物袋二つに入った鯉やフナを買った。ひとつには赤い鯉が3匹、もうひとつには黒いフナが5匹。一人っ子政策が奨励される中国では三人家族が一般的というわけで、3匹は自分の家庭を意味し、もうひとつの袋はおじいちゃん、おばあちゃんなど親族を指すのだという。

 「そうそう、水路に鯉を放して。一家の幸せを心の中で願いながらね」。魚売りの女性の声が肩越しに聞こえる。心の中で念じながら鯉を放つと、小さな幸せに包まれる気がした。

 現在の水郷古鎮ブームの先駆けとなったのは、江蘇省昆山市の「周荘」。江南の水郷として最も内外に聞こえる。世徳橋と永安橋が連結した「雙橋」が有名で、昔の鍵に似ていることから鍵橋とも呼ばれる。現代画家の大御所、陳逸飛が「メモリー・オブ・マイ・タウン」で、この橋を描いたことで、広く知られるようになった。

 宋代に創建された道教寺院の「澄虚道院」や、民家を改装して造られた「周荘博物館」、将棋専門の博物館「周荘棋苑」など見所は多いが、観光開発が進みすぎて、商業色が年々強くなっている。

明清代の面影が残る水郷の街

五つの湖に囲まれた同里は1000年の歴史を持つ

 もう少し静かな水郷を求めるなら、周荘と並んで「江南水郷の三明珠」と称される「同里」「 直」がいい。ともに、江蘇省に位置する。

 「同里」には、千年近い歴史を持つ石橋などが今も残る。建築物の多くも、明清の時代に建造されたもの。水路と住居が醸し出す一体感には江南地方の農村の特徴が出ており、映画のロケ地としてもよく使われている。2000年以上という長い歴史を持つ「ロク直」にも昔の面影が色濃く残っている。503年に建造された保聖寺という名刹などがある。

 浙江省にも郷愁をそそられる水郷がある。「烏鎮」は、素朴な人々の暮らしに触れることのできる水郷の街だ。ここでしか買えない地酒の三白酒は、アルコール度数55度の蒸留酒で、昔ながらの醸造法で造られている。街の広場では、ほのぼのとした影絵芝居も見ることができる。近代文学の巨匠・茅盾の故郷でもあり、住まいが残る。

路地からは子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる(ロク直)

 「西塘」の街並みは江南の水郷の町でも随一と言われ、明清時代の面影を最もとどめている。水路に沿って連なる白壁の家々の前には、墨色の瓦が印象的な長廊が1300メートル続く。夜になると、長廊のランタンに光が点され、水面にうつる夜景が美しい。104の橋に、弄と呼ばれる路地が122本。路地は幅も長さもそれぞれ異なる。石皮弄の道幅は最も細く、わずか80センチだ。街には、全国的にも珍しい鈕扣(ボタン)博物館もある。

 最後に、2000年とごく最近開放されたばかりの「錦渓」を紹介しておこう。まだほとんど知られていない水郷で、観光客もまばらだ。「周荘」から北東へ車で15分ほど。回廊とつながる楼閣が湖をバックにして立つ美しい姿と、湖からそよぐ風が気持ちいい。古磚瓦博物館や銭幣館など、規模は小さいが博物館がいくつもあって、楽しめる仕掛けもできている。

 どこもバスで2時間ほど。ほんの少し足を伸ばせば、喧騒の上海とは異なる時間が流れている。