未曽有の自然災害は、3年間続いた。自然災害には実は、大躍進政策の失敗という人災も加わっていたのだが、当時はそんなことを考えたことなどなかった。みんな、必死に耐えていた。
1962年から事態は好転し始めた。店に並ぶ商品の数は少しずつ増えていった。学校の食堂でも、たまに白い飯や肉が出るようになった。学友たちに笑顔が戻った。
私は北京市第25中学高中部を無事卒業し、北京大学経済学部に入ることになった。
高校最後の夏休み、クラスの有志十数人で、想い出を作ろうと、十三陵ダムまでサイクリングに出かけた。十三陵ダムは万里の長城のある八達嶺に連なる天寿山の麓にある。
みんな卒業後の行き先は決まっていた。鉄道学院、政法学院、北京医科学院、北京師範学院……。私の大の親友である周一民君は、人民解放軍に入ることが決まり、大喜びしていた。当時軍人は若者のあこがれの的で、最も優秀な人材は高卒後、軍に行くというケースが多かった。軍人は女の子にもてた。
車座になって弁当を食べながら、周君が私に言った。「僕は君との友情を生涯大切にしたい。条件があれば、日本語を勉強するよ。独学でも勉強したい。そして将来、中国と日本の架け橋になる。それが夢だ」
彼はすでに日本語の勉強を始めていた。「こんにちは」「ありがとう」など、五十くらいの日本語を話せるようになっていた。彼のおじさんは日本軍に殺されたと、私は別の学友から聞いていたが、彼はそういう話はしたことがなかった。
その後周君は、西安にある軍の医学校で軍医を目指すことになった。時々手紙が来たが、順風満帆のようで、文面からは幸福感が滲み出ていた。「忙しいが、なんとか独学で日本語を学んでいる」とあった。私もがんばらねばと彼に励まされた。
しかし、文化大革命が始まり、周君との音信は途絶えてしまった。そして、いつのころだったか、風の便りに、周君は誰かの密告により逮捕され、軍法会議にかけられた、と聞いた。私は大きなショックを受けた。
後に、事の詳細を知ることができた。周君の罪名は「日本特務との交際」で、私が北京大学で紅衛兵たちと大いに交流していたころ、西安の軍医学校では、私は「日本のスパイ」にされていたようだ。あの十三陵ダムでの、日本語を勉強して両国に橋渡しになるという周君の言葉は、「日本の手先」になる証拠となったそうだ。
周君は批判され、つるし上げをくい、殴られ、監獄に入れられ、拷問された。それでも彼は「私の親友は中国人民の友人だ。日本のスパイではない」「日本語を勉強するのは両国人民の友好のためだ」「私は間違ったことをしていない」と、罪状を認めることはもちろん、自己批判することも拒否したという。私は、密告したのがあの日サイクリングに参加した仲間の一人でないことを祈った。
文革が一段落し、周君は除隊が認められた。10年以上経ってから彼と再会した。そのとき彼の口から出た最初の言葉は、日本語で「しばらくでした」だった。抱き合ってお互いの無事を喜んだ。周君は一言の恨みつらみも言わなかった。愚痴さえも。
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