【漢詩望郷(46)


『唐詩三百首』を読もう(38)杜甫を読むP

                 棚橋篁峰


 杜甫にとって成都での暮らしはいったいどんな意味があったのでしょう。貧しいながらも友人達に支えられ、戦乱から逃れて一時の安らぎを得ていたのでしょうか。

 前回もお話ししたように、この時期の杜甫の詩には、凄まじいばかりの憂いを感じるものは少ないような気がします。人は皆、生活の苦しみが和らげば、心にも豊かさが戻るからです。同時に洛陽や長安、秦州や同谷と巴蜀の地の自然条件の違いがあるのではないでしょうか。

 秦嶺山脈の北と南では、気温・湿度・降水量など、同じ中国でありながら、山一つ隔ててこれほど違うものかと驚かされます。長安では冬の寒いときには、零下十度以下となり、乾いた空気は、黄土大地の黄砂を運び、いつ降るか解らぬ雨に喉の渇きを覚えます。しかし、成都ではこの反対で潤った大地に至るところ清らかな流れがあり、一面の緑は年中絶えることがありません。私は、こんな自然条件が杜甫の詩に現れているのだと思います。

 それだけで、杜甫は満足していたのでしょうか。今回読む「野望」は、身に迫る危機がないことが、ある意味で杜甫の苦悩の始まりだったことを示しているのではないでしょうか。なぜならば、杜甫の憂いは、限りない人々への愛情から出たものだからです。

 これまで何としても任官し人々の苦痛を善政によって救いたいと思っていた杜甫の憂いは、未だに解かれてはいません。都を遠く離れ生きてはいるものの、杜甫は、自らの思いと現実の狭間で苦悩していたように思えるのです。

野 望  杜 甫

西山白雪三城戍、南浦清江万里橋。
 西山の白雪 三城の戍り
 南浦の清江 万里橋。

海内風塵諸弟隔、天涯涕涙一身遥。
 海内の風塵 諸弟隔たり、
 天涯の涕涙 一身遥かなり。

惟将遅暮供多病、未有涓埃答聖朝。
 惟だ遅暮を将って 多病に供す、
 未だ涓埃の聖朝に答うる有らず。

跨馬出郊時極目、不堪人事日蕭條。
 馬に跨がり郊を出でて 時に目を極めれば、
 堪えず人事の日に蕭条たるに。

【通釈】
 西山の白雪あたりに、三つの要塞が見え、南浦の清らかな流れに、万里橋が架かる。

 天下の戦乱は続き、弟たちとも遠く隔たり、地の果ての成都に涙を流し、遥かにこの身を置く。

 ただ、晩年になって、病気がちのありさまで、未だに、聖天子の恩沢に答えることもできない。

 馬に乗り郊外に出て、時に見渡す限りを見れば、人それぞれの生活が、日々にすさんでいくのに、耐え難い思いでいる。

 起聯、頷聯でうち続く争乱に、親族との連絡も取れず、独り成都で涙しているばかりだといっています。世の中の混乱は、まるで自分の罪のような意識が見えるのです。

 頸聯では、自らの病のため皇帝の恩沢に答えられないと嘆いています。この句の中には、もし自分が出仕して国のために働くことが出来れば、この世の中を平和に出来るのにという思いがあるに違い有りません。結聯にその願いは人々のすさんでいく姿に耐えがたい苦しみを得ているということからも解ります。

 杜甫は何も出来ないで成都にいる自分を激しく責めていたと思うのです。人々の苦しみを見れば、何もしないことは、杜甫にとって罪に思えたのではないでしょうか。この詩の中には、自らの安心よりももっと大きな人類愛が詠まれていると思うのです。今日世界中の政治家や官吏を見ても杜甫のような人が何人いるかと思うのです。