洪水と闘った信念の人
温家宝新総理の横顔

                       本誌編集部

3月18日に挙行された内外記者会見で、温家宝新総理は国際情勢についての立場や見方を縦横に語った

 

 3月16日、北京の人民大会堂で、新たに総理に就任した温家宝氏が、総理の任を終えた朱鎔基氏とがっちり握手を交わしたとき、満場から熱烈な拍手が巻き起こり、激しくフラッシュがたかれた。(以下 文中敬称略)

 3月18日午前、総理に就任した温家宝は、人民大会堂で内外記者会見に臨んだ。そこで彼は話の冒頭で、まず人民の信任に感謝し、続いて自分の略歴を紹介した。

 彼は地質学を学び、地質の仕事に従事すること約25年、中央での仕事は18年を数える。その間、全国2500の県のうち1800を走破し、中国の国情と民情を深く知ったのだった。「私は人民の期待していることを深く知っている。私は決して人民の期待に背かない。必ず人民が私に与えてくれた信念と勇気と力をもって、憲法が私に付与した職責を忠実に履行し、知恵を絞って国事に力を尽くし、重い期待に背かない」と温家宝は述べた。

 多くの外国人記者たちは、朱鎔基前総理が総理に就任したときに見せた悲壮感漂う気概を今もはっきり記憶している。その後継者となることについて温家宝は自分の見解をこう表明した。

 「朱鎔基総理は、私が非常に敬服する指導者の一人で、彼の多くの優れた点を私は学ばなければなりません。私自身について言えば、多くの人々が私を温和な人間だと考えているようですが、同時に私は、信念があり、定見を持ち、敢えて責任をとる人間でもあります。私は総理に当選した後、心の中で林則徐の詩を声を出さずに念じました。それは『苟モ国家ヲ利スレバ 生死ヲ以ッテス 豈禍福ニ因リテ 之ヲ避趨スルヤ』という詩です。これが私の仕事に対する態度です」

 林則徐(1785〜1850年)は清末の政治家で、アヘンの輸入禁止令を実行し、アヘン戦争に発展した。愛国者として評価が高い。温家宝が引用した林則徐の詩は、「国に利することであれば命をかけて行い、自分の幸福や不幸のためにこれを行ったり、避けたりすることがあってはならない」という意味だ。

 さらに温家宝は「中国の総理をうまくつとめるのは容易なことではない」と率直に言った。そして自分の肩に千鈞の重さを担いでいると感じている。しかし彼の穏やかな語調中に込められた気概が、彼に対する人々の信頼につながっている。微笑を絶やさない控え目で、おっとりした中にも剛毅さを失わないこのインテリが、どのようにして一歩一歩、国家を運営する権力の最高峰に上ったのか。彼の若かりし日のことを可能な限り掘り起こすことによって、その中から中国が総理に温家宝を選択した必然性を理解することができるかもしれない。

祁連山の風雪が鍛える

 「温家胡同から温家宝が出た」。これは天津市北辰区宜興埠鎮の、かつて温家宝の隣り近所に住んだ人たちが今もよく口にする言葉である。新総理は1942年、ここで生まれた。温家宝の6代前の先祖からここに住んできた。おそらく温家胡同の名はここから付いたのだろう。

 温家は代々、農村の教育者の家柄だった。温家宝の祖父も父母も、みな教師だった。温家宝は幼年時代を戦乱の中で過ごした。家屋敷も、祖父が自分で開いた小学校もみな戦火で破壊された。旧中国の苦難が、永遠に消せない印象を彼に残した。

 彼は7歳の時、家族とともに天津市南開区に引っ越した。そして中学・高校の六年間、天津市の南開中学で学んだ。南開中学は故周恩来総理や鄒家華・元副総理を生んだことでその名を知られている。温家宝はこの学校の誇りとなっていて、「一門ヨリ 三宰相出ヅ」と言われている。

 温家宝は北京地質学院に入学し、成績優秀で、本科を卒業した後、同学院の構造地質専攻の修士課程に合格した。そして1968年2月、大学が「文化大革命」によってめちゃめちゃになったため、彼は研究室での勉強を思い切って捨て、自ら進んで当時「辺境の地」と見なされていた甘粛省に行きたいと要求し、実践の中で研修を深め、以後、14年にわたる祁連山での生活が始まった。

 温家宝は甘粛の酒泉地質隊で仕事をしていた期間に、蘭州大学の卒業生で、甘粛省地質局に勤めていた張培莉と結婚した。それから数十年、彼らの家庭は仲むつまじく、生活は簡素で、人付き合いも良かった。

3月16日に挙行された第10期全人代第1回会議の第6回全体会議で、国務院総理に選ばれ、朱鎔基前総理(右)から祝福を受ける温家宝氏

 祁連山の風雪の中での地質の仕事は非常に厳しいもので、温家宝は日増しに強靭になり、熟達していった。彼は酒泉で灌漑工事に従事していたとき、山津波に遭ったことがある。そのとき彼は同僚と、一夜に三回もテントを移動させ、やっと難を逃れた。

 当時、一般の幹部の中に、修士の学歴を持った者は多くなかった。しかし彼は自分の学歴を誇るようなことはなく、人から謙虚に学び、人に尋ねることを恥ずかしいとは思わなかった。仕事を始めたばかりの技術者と技術改造についての方策を検討したときも、温家宝は彼らを励まし、平等な立場で討論した。

 改革・開放政策は、幹部たちの若返りや知識化を要求し、温家宝は自然に頭角を現して、一歩一歩着実に昇進していった。1984年に党中央組織部が全国的に選抜すべき幹部を調べた際、年が若く、学歴が高く、才能があることなど多くの選抜基準に合っているとして温家宝を中央に推薦した。翌85年春、彼は中国共産党中央弁公庁副主任に任命され、さらに1年後には王兆国主任に替わって第7代の中央弁公庁主任となった。それから7年間、ここで仕事をしたが、彼の下で働いた人たちは、温家宝の仕事ぶりを、勤勉、精緻で、真面目だったと記憶している。

 1987年に開かれた中国共産党の第13回全国代表大会(13大)では、温家宝は政治報告の起草の仕事に参加するとともに、大会副秘書長の身分で会議の日常業務に責任を負った。このときいっしょに13大の政治報告の起草に参加したある学者は温家宝について「彼は自然科学と経済の仕事に大変興味を持っていた。彼はいつもマクロ的かつロングレンジで、政治や経済の問題を考えていることが分かった」と述べている。この学者は、温家宝の鋭い眼光と穏やかな作風を今もよく記憶している。

 1992年以後、温家宝は政治局委員候補をつとめ、責任範囲の仕事はますます多くなった。しかし、指導者を尊敬し、周辺の人々には気さくで取っ付きやすいという彼の作風は一貫していた。後に彼は政治局員となり、中央書記処書記を兼任した。そして財政経済、科学技術、農業と農村工作を主管し、政治局常務委員会が管轄する中央財経指導小組副組長、中央金融工作委員会書記、中央農村工作指導小組組長、西部開発指導小組副組長、貧困対策・開発指導小組組長、住宅改革指導小組組長、防洪(洪水防止)総指揮部総指揮、緑化委員会主任などを兼任した。

 中国が世界貿易機関(WTO)に加盟した後、中央の指導者たちがもっとも憂慮した問題は、農業と金融の面に集中していた。温家宝はこの二つの問題に、豊富な経験を積んでいた。彼は国務院副総理を四年間担当し、全国的なマクロコントロールの経験を蓄積していたのだ。中国共産党中央では、政治局は政策決定機関であり、書記処は執行機関である。温家宝は、政策決定とその執行の役割を兼ね備えていたのだった。

適切な決断を下す

 1998年、長江沿岸で百年に一度という大洪水が発生した。まさにこのとき、温家宝は全国抗旱防洪小組の組長を務めていた。彼は何度も江沢民総書記や朱鎔基総理とともに長江沿岸を視察した。また彼自身、数カ月連続で、洪水と闘う第一線を駆けまわった。長江下流の九江市だけでも、3カ月の間に5回も訪れた。

 この年の5月31日、温家宝は九江に、江西、湖北などの省の指導者を招集し、洪水防止工作の役割を定めた。この席でこの数年来の埋め立てによる農地の開発や樹木の乱伐について彼は『ヘーゲルの弁証法』を引用した。それは「人々が自然に対し勝利したと歓呼の声をあげたそのとき、自然も人類に対し懲罰を開始するのだ」という有名な一句であった。果たせるかなこの会議の後、一カ月もたたないうちに長江の水害が起こったのだ。

第10期全人代第1回会議の主席団会議に出席した胡錦涛主席(右)と温家宝氏

 7月4日、温家宝は朱鎔基総理に従って、ひどい被害を受けた九江市の徳安県に行き、被災民を見舞い、船で九江市の各区の堤防を巡視し、雨の中で堤防を守る武装警察部隊の将兵を見舞った。7月29日には、朱鎔基総理に代わり、三度目の九江訪問を行った。このとき彼は雨傘をさし、ぬかるんだ道を10キロ近く歩き、その途中で大堤防の危険な状況を観察した。また、時には立ちどまって水利の専門家や地方の幹部と、洪水を防ぎ、危険を回避する方策を研究した。

 8月4日、九江県江州鎮の堤防が決壊した。温家宝はすぐに現場に駆けつけ、洪水が引いたあとに残された泥の中を歩いて被災民を見舞った。彼は被災民の家の中で、びっしょり濡れた小さい腰掛けに腰を下ろし、一般大衆といっしょに、どのようにして生産を回復するか、家屋敷をどうやって再建するかを話し合った。

 8月9日、長江の基幹堤防が決壊し、九江の市街地に危険が迫った。このとき湖北で洪水防止の指導に当たっていた温家宝は、まず災害の状況を電話で尋ねるとともに、すばやく大堤防の決壊個所に急行し、自ら決壊した口を塞ぐ作業を指揮した。

 江西省九江市党委員会弁公室のある官吏は「1998年の洪水は、九江市や江西省の政治的配置にとってきわめて重要なものとなった。この災害のあと、多くの涜職官吏が処分を受けたからだ。温家宝氏の実務的な作風が、わずかの夾雑物の存在も許さなかったということができる」と述べている。

 湖北省の防洪指揮部のある官吏は「1998年夏の長江の洪水との闘いによって、人々は温家宝副総理の実力を十分見て取ることが出来た」と述べ、こう回顧している。

 「当時、湖北省武漢は水位が急上昇し、多くの人々は荊江の大堤防を爆破し、洪水を分流するやり方で武漢の安全を保てと要求した。これはなかなか決め難い問題だった。なぜなら、もし大堤防を爆破して洪水を分流すれば、900平方キロの公安県は洪水のために水没し、40万人が家を失い、その損害は150億元に達するだろう。しかし、もし堤防を爆破せず、大堤防が決壊すれば、武漢市は水没し、その損害はさらに重大なものになる。温家宝副総理は、水利専門家のつかんでいるデータと分析を聴取したあと、すばやく決断を下し、大堤防を守れと命じた。この決断によって、洪水と闘う大軍が、最小の損失だけで人民の家屋敷を安全に保つことができたのだった」

 2002年、山東省で大旱魃が起こった。温家宝は、もっとも被害のひどかった聊城などに行き、視察した。山東省民政庁の災害救済処の劉其順処長は当時をこう回顧する。

 「9月26日、温家宝副総理は、省の関係指導者を招集し、被災状況を検討したとき、その場で、財政部と水利部が山東省に8000万元を支出し、それを災害救援や人畜の飲料水問題の解決、緊急の水利プロジェクト建設に用いるとともに、黄河の中上流のダムからつぎつぎに山東省に15億立方メートルの黄河の水を送るよう指示したのである」

 温家宝が災害対策の指揮で発揮した才能は、経済変動に対応する際にも同じように発揮された。中央の主要な財政経済の高官として、1997年以来、彼は朱鎔基総理を助けてアジア経済危機に対処することに成功し、1998年には中央金融工作委員会を組織した。中央経済工作会議は、金融改革を2003年の四大改革項目の一つとすると決定した。ある専門家はこう論評している。「金融体制はすでに中国の経済発展のボトルネックになっているが、改革によりこのボトルネックを突破すれば、新たな天地が拓けることを意味している。幸いなことは、金融は温家宝のもっとも熟知している二つの分野の一つだと言うことだ」

常に足元を見据える

 温家宝は深く社会の底辺にまで入って調査、研究することを非常に重視してきた。2002年3月、第9期全国人民代表大会(全人代)に出席した遼寧、河北両省の代表はみな、温家宝副総理の仕事の作風に深い印象を受けた。彼は遼寧西部の2001年の旱魃被害が甚大だったことを知ると、その地の農村から来た全人代代表に、政府の「国の倉庫から農民に食糧を貸す」などの救済策が実際にどのように実行されているかを詳しく尋ねた。また、遼寧西部の朝陽市の王大操市長に、面と向かってこう戒めたのだった。

 「三つの数字を必ずはっきりさせなければならない。第一は『国の倉庫から農民に食糧を貸した』数量、それは、被災地の農民の食糧を保証しなければならないからだ。第二は救済用に放出した食糧の数量。第三は農民が出稼ぎや親戚・友人との相互扶助などの方法で自ら救済し、問題を解決した数。この三つの数字がはっきりすれば、食糧が欠乏している人口の状況は見当がつく」

 温家宝をよく知るある官吏は、彼が地方を視察するとき、いつも車列を突然停車させ、事前に手配されていないところで車を降り、付近の住民と話し合い、社会の底辺で生きる民衆の考えを理解したいと思っている、と言っている。粉飾されていない社会の隅々の実情を見るためだ。

 2002年11月21日、中国共産党の16大で政治局常務委員に選ばれたばかりの温家宝は、貴州省の山間部の貧困地区を訪れ、人々から実情を聞いた。

 2003年1月2日には、国家計画委員会、農業部、水利部などの関係部門の幹部を率いて、零下20度以下の極寒の中を、山西省に行き、山間部の貧困農家や地方小都市の低収入の居民を訪ねた。どの家でも、彼は村民に収穫や作柄、農民の負担や小中学校教育などの状況を詳しく聴き、人々に困難や要求はどこにあるかと尋ねたのだった。また彼は、風邪を引いて調子が悪かったのに、山西省の農村金融改革に関して報告を聴取した。

 大晦日は中国人にとって、一家がみな集まって団欒する重要な日である。しかし、2003年の大晦日、温家宝は遼寧省阜新市で、炭鉱労働者たちを訪ねていた。

 飛行機を降りるやいなや、彼は2時間以上も車に乗って阜新鉱業集団属の艾友炭鉱に行き、第一線の労働者に生産や安全などの状況を尋ねた。さらにトロッコに乗って地下720メートルの採炭現場に行き、そこで働く炭鉱労働者たちと坑道のレールの上に車座となって、いっしょに年越しの餃子を食べたのだった。

国務院副総理時代、北京で、当時の日本の保守党党首で日中協会会長の野田毅氏(左)らと会見した温家宝氏

 阜新鉱業集団はまさに国有企業改革の難しい時期にあった。4人に一人の労働者がレイオフとなっていた。温家宝副総理が労働者とともに大晦日を過ごしたことで、ここで働く労働者たちは非常に感激し、国家が彼らのことを忘れていない、と感じたのだった。

 彼が末端の幹部や大衆と握手するときの笑顔、彼が貧しい人々と話すときに流した涙、彼が地下で炭鉱労働者とともに年越しをした温情――これらはその場にいた幹部や大衆を感動させたばかりではない。その場にいなかった中国のすべての人々をも感動させたのだった。

 いま、温家宝と朱鎔基との総理の交代は完了した。中国の人々は、弱い立場の人々に想いをはせ、底辺の仕事の経験豊富な新総理に、大いに期待している。しかしこうした人々の願いに対し、温家宝は冷静な態度を保っている。「前任の方々が我々にしっかりした基礎を造ってくれた。しかし我々の前には多くの困難と問題が横たわっている。我々は引き続き創造的な仕事をしていかなければならない」と述べたのだった。

 今後、5年間、温家宝は今期の政府を率いる。その実践の中で人民代表大会に対し、きっと満足できる答案を出すことができるであろう。