私は、三月下旬三回目の杜甫の旅に出ました。昨年一回目と二回目の旅をして、いよいよ最後の旅です。
一時の安住を得た成都を去って三峡を下るのです。皇帝に仕え人民の安寧を願う指導者として一身を捧げようとした杜甫にとって、この最後の旅は、夢破れ病の苦しみを供としてのあてどもない旅でした。その中にあって、杜甫の詩は最後の輝きを見せます。
代宗の永泰元年(七六五)五月、成都の草堂を捨てた杜甫は、五十四歳。嘉州(四川省楽山市)、戎州(四川省宜賓)を経て渝州(重慶市)、更に忠州(重慶市忠県)に向かいます。もちろん中国人の習慣で、知り合いを訪ねての旅でした。そして三峡へ向かうのです。今回の詩「旅夜書懐」は雲安(重慶市雲陽)へ向かう頃の詩だと思われます。
今回の私の旅は、三峡で杜甫と同じ景色を見る最後のチャンスです。昨年新三峡ダムの最後まで残った部分が塞き止められ、今年から徐々に川の水位が上がり始めます。この詩の舞台雲陽もやがて水没するのです。
雲陽では、杜甫は川岸に半年住んでいたといわれています。その場所は分かりません。私の乗る三国号は豪華観光船です。その甲板から去りゆく景色の中に杜甫の詩に思いをはせてみました。
旅夜書懐 杜 甫
細草微風岸、危檣独夜舟。
細草微風の岸、
危檣独夜の舟。
星垂平野闊、月湧大江流。
星垂れて 平野闊く、
月湧いて 大江流る。
名豈文章著、官応老病休。
名は豈に 文章 に 著し、
官は応に 老病に休む。
飄飄何所似、天地一沙鴎。
飄々 何の 似る所ぞ、
天地の一沙鴎。
【通釈】
細やかな草の上をそよ風が吹き渡る岸辺、高い帆柱の舟に、自分一人の夜。
星は滴るようにまたたき、広大な平野が広がる、月は水が湧き出たかのように長江に浮かび、長江は果てしなく流れる。
自分は、どうして詩文によって名を成すことが出来るだろうか、官職はまさに、老いて病の身では辞めざるを得ない。
風の吹かれるままに流離う身は、いったい何に似ているのだろう、それは、天地の間にさまよう砂浜の一羽のカモメのようだ。
この頃、成都で杜甫を節度参謀・検校工部員外郎にしてくれた厳武が死んでいます。ですから三峡に向かう舟の中で自らの心が沈んでいくのを感じていたのではないでしょうか。この詩の中にはそのような杜甫の思いが現れていると思うのです。
「星垂平野闊、月湧 蜊]流。名豈文章著、官応老病休」
この句は、写実的なものとしてみた場合、事実とは合いません。では、杜甫は何を言いたかったのでしょうか。
「星垂平野闊、月湧大江流」は自然の美しい姿に託して「多くの人々(星)は、唐土の大地(平野)にたくましく生活している。偉大な皇帝(月)は時代(大江)を動かして時は過ぎていくのだ」
「名豈文章著、官応老病休」は自分の姿を見て「文学(文章)によって世に名を成す(著)ことも出来ないし、老いて病の身(老病)では、皇帝陛下(官)のお役にも立てない」
こんな嘆きのように思えるのです。もし写実的に読めば、三峡で「平野闊」と詠うのは事実に合いません。また「官応老病休」は官を辞したのではなく、厳武の死によって辞めざるを得なかったのです。とすれば、この二つの対句は杜甫の心の表現だったと見ることも出来ると思うのです。そんな思いを胸に私の乗った三国号は天地の一沙鴎のように三峡に向かっていたのです。
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