私が入学した当時の北京大学には、学生食堂が三種類あった。中国学生の一般食堂、イスラム教徒のための回民食堂、それに私たち外国人学生のための留学生食堂である。

 中国学生の一般食堂は、毎食、メニューが決まっていて、選択の余地はなかった。回民食堂もブタ肉を使わないだけで、毎食、みんなが同じものを食べていた。それに比べ留学生食堂は恵まれていた。主食は米飯、饅頭、パンがあり、お菜も五、六種類あって選ぶことができた。

 私は、朝はお粥と目玉焼き、漬物、昼は饅頭と一菜一汁、夜は米飯と二菜一汁というのが習わしだった。それで一カ月の食費は大体三十数元だった。中国の学生は十元ほどだったから、留学生は相当贅沢ができたわけである。

 ある日の昼、私はいつものように食堂で、饅頭二個と一菜一汁を注文した。ところがあまり食欲がなく、饅頭を一個少々食べ、後は残してしまった。私は残った饅頭を紙に包んで宿舎に持ち帰った。

 翌朝、その饅頭を見ると、かちかちに乾燥して、とても食べられる状態ではなくなっていた。私はもったいないとは思いながらも、授業に行く途中でゴミ箱に捨てた。それが問題の発端だった。

 数日後、私は学友たちの私に接する態度に、違和感を持つようになった。何となくよそよそしいのである。そして彼らが私に批判的であることを知った。しかし私には思い当たる節がなかった。私と学友たちの関係はすこぶる良好なのだ。

 私はルームメートの柳君に、どういうことなのか率直に聞かせて欲しいと頼んだ。柳君は迷っていたが、「実は」とその理由を話してくれた。原因はあの食べ残した饅頭を捨てたことだった。

 「こんなことで君によそよそしくなる学生たちも悪いが、君もぜひわかって欲しい。わが国はまだ貧しい。腹いっぱい食べられない人がたくさんいるんだ。農民はあくせく働いてコメや麦を作っても、自身が口にするのは雑穀だ。僕らは働かないで、勉強させてもらい、食べさせてもらっている。コメや麦一粒でも無駄にしてはいけないと、僕らはいつも教育を受けている」

 「でも、共青団の支部会議で、君に冷たくした連中は批判された。わが国の基準を外国の友人に押しつけることは正しくないし、そんなことで僕たちの友情にヒビが入ることは絶対良くない」

 私はショックだった。もう何年も中国に暮らし、事情はわかっているつもりだったが、肝腎なことは何一つわかってなかったのだ。私の間違った行動がいかに学友たちを傷つけたことか。

 水を飲む時は井戸を掘った人の、コメを食べるときはコメを作った人の苦労を想うことの難しさを、私は痛感した。

 翌日、私はクラス全員を前にして自己批判した。

 

 

 

 

【略歴】西園寺一晃
1942年、東京生まれ。58年、「民間大使」といわれた西園寺公一氏とともに一家をあげて北京に移住。北京市第25中学初級部三年入学、62年、北京大学経済学部政治経済科入学。北京大学四年在学中に文化大革命勃発。67年、北京大学政治経済科卒業。71年、朝日新聞東京本社入社、中国アジア調査会、平和問題調査室、調査研究室、文化企画局、総合研究センター主任研究員などを経て、2002年10月、定年退職。
現在、日中友好協会全国本部参与、東京都日中友好協会副会長、北京大学日本研究センター在外研究員。主な著書に「青春の北京」(中央公論社)、「中国辺境をゆく」(日本交通公社出版局)、「ケ穎超」(潮出版社)など。