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中国野球の草分け的存在で、野球の魅力を伝えようと、半世紀以上、努力を続けてきた梁友徳さんに、中国野球の過去と未来について聞いた。 |
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梁友徳さん略歴 1922年横浜生まれ。元中国野球協会副主席。かつて北京の六里橋小学校、育才学校、北京外国語大学などで野球を教える。「奮進カップ少年野球大会(北京)」などを運営。『日本少年野球と中日交流』『中国野球運動史』(共著)(いずれも中国語)など、野球に関する著書多数。高齢にも関わらず、少年野球チーム、成年チームなどの試合、練習に足を運び、現場うぃ自分の目で見続けている。
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在日華僑だった父・梁扶初は、明治大学で捕手、一塁手としてプレーし、卒業後も、横浜で中国人チームのコーチをしていました。その後、戦争の気運が高まったため、1933年、11歳だった私を連れて中国に帰国しました。
野球が中国に持ち込まれたのは、私たちが帰国する前の19世紀末。アメリカの宣教師をはじめ、日本やアメリカに留学した学生が大きな役割を果たしたと聞いています。父も普及に貢献した一人です。
ただ当時は、大学や成年のチームはあっても、今のように少年チームはありませんでした。内戦などにより社会が混乱し、普及の基盤がなかったからでしょう。解放前(49年以前)、野球が最も盛んに行われていたのは、人民解放軍(抗日戦争期の八路軍を含む)。チームプレーを重んじる野球が、軍事訓練に向いていたからで、物騒な話ですが、手榴弾を投げる練習にも、うってつけだったのです。
ただ、道具は手に入らなかった。ボールは牛皮で布や木を包み糸でくくったもの、バットは木を削って作ったものでした。ボールは堅いから痛くてたまらなかったですし、バットだって重すぎて、とても振れたものじゃなかったですね。
50年代初め、解放軍がソ連式の訓練を採用したことで、アメリカ文化の象徴である野球は軍隊から消え、一度は影響力が小さくなりました。
しかし56年、全国運動会(59年)の種目に野球を加えるという提案があり、風向きが変わりました。今ですら、省代表チームは十数チームですが、同運動会には21チームが参加しました。成年チームの数が一番多かったのはこのころです。
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記念Tシャツを着て野球クリニックの開始を待つ |
ただ、こんな追い風もすぐに止まりました。60年前後は、自然災害により、首都の北京でさえ食べ物に困る状態だったからです。当時、今の北京外国語大学で野球コーチをしていましたが、スポーツ選手には穀物の配給量が多いという理由で、野球を続けたいと望む学生が多かったのを覚えています。
その後、「文化大革命」(66〜76年)の初期に、あらゆるスポーツ活動が中止され、文革中の72年に、国の呼びかけで野球が再開されるまで、また数年の空白ができました。文革中に野球が再開されたのは、中国と外国の平和友好条約の交渉が開始されたからです。アメリカとの野球交流は75年に始まり、日本からは、79年に千葉県の少年野球チームが初訪中しています。
中国で、少年野球チームが出来始めたのは文革後です。しかし、少年野球にとっての本当の転換期は、81年の「第一回野球訓練活動会議」でした。ケ小平氏がサッカー関係者に語った「子どもから重視しよう」というスローガンを受けて、野球界も少年野球に力を入れ始めたのです。
ただ、それ以降、野球チームは増えたり減ったり。外国チームとの交流が増え、海外の大会に出場するチームも出てきました。
ただここ数年で、民間の野球クラブが増えつつあり、CBLも始まりました。国の支援も民間の資本も動き出しています。これからも、国の支援と民間の力がうまく兼ね合えば、中国野球には追い風が吹き続けることになると思います。
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北京五輪に向けて
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中国野球協会 秘書長 申偉さん
(談) |
中国野球リーグ(CBL)を通して、成人チームの強化と、すそ野の拡大を同時に進めたいと考えています。そこでCBLの運営は、スポーツイベント運営の経験豊富なダイナスティースポーツマーケティング(DSM)に委託し、双方の経験や資源を共有するようになりました。
また協会では毎年、小中高校などの各年齢層の少年野球大会を主催しています。しかし広い中国では、遠く離れた地区からは、遠征費などの関係で参加できないチームがたくさんあり、問題になっていました。そこで今後は、大会以外にも、各地でサマーキャンプを開くことなども視野に入れています。
野球選手の育成周期は、他のスポーツに比べてずっと長く、(アテネ五輪の予選は今年行われますが)すぐに良い成績を挙げようとするのは現実的ではありません。ただ、2008年の北京五輪までには、まだ5年ありますから、個人的には、将来を楽観しています。五輪には多くの人が注目しますから、中国野球にとっての一つの突破口になってほしいと思っています。
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