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突如、猛威をふるった重症急性呼吸器症候群(SARS)は、中国にも世界の人々にも大きな災難をもたらした。4月29日、中国の温家宝総理は、タイの首都バンコクで開かれたSARSに関する中国―東南アジア諸国連合(ASEAN)緊急首脳会議に、専門家や関係者らを率いて出席。アジアにおける特別基金を設立し、SARSの予防治療に協力しあうことで一致した。この温家宝総理の随行団のなかに、ある一人の医学専門家で中国工程院院士(アカデミー会員)、広州市呼吸器疾病研究所の所長で広東省SARS医療救護専門家指導チームのリーダーである鍾南山さん(66歳)がいた。彼はSARSとの闘いで、技術面でもトップクラスにあるばかりでなく、全国における救助と治療の作業を指導し、権威部門の誤った干渉を排除し、患者への責任と真理をつらぬき、医学科学者としての勇気と良識をもちあわせ、人々の尊敬を集めているのだ。
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中国工程院院士の鍾南山さん |
中国でもっとも早くSARSが蔓延したのは広東省で、その後、山西省、北京市などの地へも飛び火した。鍾さんは、もっとも早くSARS患者を受け入れて、治療にあたった医者の一人だ。
鍾さんが所長をつとめる広州市呼吸器疾病研究所は2003年1月、広東省の河源市から搬送された重症患者を受け入れた。患者は高熱と呼吸困難が続き、すでに危篤状態だった。鍾さんは診療を行うなかで、この患者の肺が硬化し、いかなる抗生物質をつかっても効果がないことを発見した。研究所の医者たちが「もはや手の打ちようがない」とあきらめかけていたとき、鍾さんは患者に皮質ホルモンを注射した。翌日、患者の病状が突然、好転しはじめた。それは医者たちにとって、不可解なできごとだった。
数日後、河源市の関係者から、ある情報がよせられた。現地の病院で患者の治療にあたった医療従事者、患者の家族、さらには救急車の運転手にいたるまで、合わせて8人が感染していた。症状は、最初の患者と同じであった。
このニュースは、鍾さんを驚愕させた。その深い学識と長年の医療経験により、彼はこう予感した。「これは、きわめて特殊な伝染病に違いない。強い感染力をもち、家庭や病院に広がるという特徴をもつ。表面上は肺炎のようだが、けっして典型的な肺炎ではない。注視する必要がある」と。
鍾さんが、このふつうではない症例の治療法を探っているとき、広東省のまた別の場所――中山市でも、同様の症例が現れた。
「状況はますます深刻化している!」。鍾さんは焦ったが、頭脳はいたって明晰だった。当面の急務は、一刻も早くその症状を明確にして、予防と治療の方法を探し出すことだった。
広東省衛生庁は1月21日、鍾南山さんをリーダーとする専門家チームを、感染状況が深刻な中山市へと派遣、立ち会い診察や緊急医療をすすめた。患者30人以上に対する全面的な調査と状況分析をとおして、専門家たちは鍾さんの次のような判断を確認した。
――これは人類史上かつてない伝染病であり、臨床症状において、既知の典型的肺炎とは異なる。患者はおもに高熱、からセキ、呼吸困難などの症状を現し、もし手遅れになれば、呼吸器や臓器の不全などにより死亡しやすい。感染ルートは、感染者との近距離における接触や、飛沫感染によるものと第一段階では認める――。
これにより、専門家たちはすぐにも中山市における原因不明の肺炎の「調査レポート」を起草した。レポートでは、この未知の疫病を初めて「非典型肺炎」(SARS)と名付けた。また、このとき鍾さんは、広東省政府から「広東省SARS医療救護専門家指導チーム」のリーダーに任命された。
一月下旬、SARSの拡散状況がさらに悪化した。省内の多くの病院から、症例報告がつぎつぎと寄せられ、広州市の患者数も急激に増加した。病院や医療従事者らは、精神的にも物質的(設備や技術など)にも、大きなプレッシャーを抱え込んだ。
このとき、広東省のSARS救護指導チームのリーダーとして、鍾南山さんは率先して省の衛生庁に、こう提案した。「省内でもっとも重症である患者を(自らが所長をつとめる)広州市呼吸器疾病研究所に搬送してほしい」。そして、こうも説明した。「われわれは30年以上におよぶ呼吸器疾患の研究と実践に従事してきた。それなりの経験を蓄積しており、患者を救う成功率も比較的高いといえる。もし、どの病院でもSARS患者を受け入れたなら、医療従事者の感染者数があきらかに増加する。別の見方をすれば、これもまた、われわれに与えられた更なる研究のチャンスなのだ」
鍾さんの頑張りのもと、呼吸器疾病研究所には重症患者がつぎつぎと搬送された。そして、ここは広東省におけるSARSと闘う技術センターであり、戦場でもあったのだ。
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内外のマスコミから取材をうける広東省SARS医療救護専門家指導チームのリーダー、鍾南山さん |
研究所に送られてきた患者の治療にあたるうち、鍾さんは、各病院の診断基準がまちまちで、そのレベルにも差があることに気がついた。あるものはすでに末期状態で、どんな病気かもハッキリしなかった。あるものは、完全にSARSと誤診されていた。そのため鍾さんは、「当面の急務はSARSの臨床診断基準を制定し、周知徹底させることだ」と考えた。
そこで、何人かの呼吸器疾病専門家を緊急に呼びあつめ、SARSの「攻関」(難関を攻める)チームを設立。日夜を分かたぬ努力をつづけた。その後、専門家たちの豊富な臨床経験をもとに、『広東省SARS症例臨床診断基準』が急きょ作成された。正確な診断基準を確保するため、鍾さんは文章の一字一句にいたるまで審議を重ねた。発表された基準は、SARS臨床診断の重要な科学的根拠となった。
広東省のSARS医療従事者は引きつづき、鍾さんの指導により、具体的で有効な治療法をいくつかまとめた。たとえば、患者に顔面マスクを着用し、挿管せずに呼吸ができるようにする、抗生物質を使った二次感染の治療を重視する、重症患者を専門病院にあつめれば、感染の機会を減らし、治癒率も高まる、などだ。
これらの措置と方法で、広東省のSARS患者の治療にあきらかな効果が現れてきた。3月以降、広東省のSARS患者死亡数は大幅に減少し、治癒率も徐々に高まった。患者の多くが、きわめて早く回復するようになった。香港の東区病院では、この広東省の治療法を参考にした。患者75人のうち、死亡数はゼロ、挿管が一例あっただけだった。
世界保健機関(WHO)の専門家チームが広東省の状況を視察したさい、こうした治療法に積極的な評価を与えた。「中国広東省の治療法は、きわめて積極的で有効的だ」と彼らは言った。広東省衛生庁の王智ヌア將。長はインタビューに答え、「広東のSARSとの闘いは、現在見られるような成果をあげた。それは、鍾南山氏の医療技術面における独創的な考えによるところが大きい」と語った。
SARSはその強い感染力のほか、さらに怖いのは、医療従事者がきわめて高い危険性に直面していることである。というのは、医療従事者は患者を診るさい、長時間にわたり、患者に至近距離で接するからだ。とくに患者に挿管したり、その痰を吸引したり、呼吸機器を使用したりする行いで感染する確率は普通の人よりかなり高い。当時、広州医学院附属第一病院に勤めていた二十余人の医療従事者は、同時にSARSに感染した。彼らはまさにSARSと闘う主力であった。
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回復した患者が鍾さんに、心からの感謝の気持ちを述べた |
鍾南山さんには、問題の深刻性がわかっていた。一人の患者から、何人もの医療従事者が感染していた。しかし一人の医療従事者が倒れると、何人もの患者の治療が遅れてしまう。それは悪い連鎖現象を起こすので、必ず食い止めなければならなかった。現在、予防策としてはまず、医療従事者はできるだけ厳しく自己保護の措置を取り、感染の機会を減らす。感染しても、できるだけ早く回復しなければならない。SARSと闘う第一線に、いつも経験や技術をもつ医療従事者がいることを保証する、などである。
鍾さんはこの間ずっと、医療従事者の健康に気をかけてきた。毎日どんなに忙しくても、疲れていても、すすんで彼らを訪ね、その状況を聞いてきた。ICU(集中治療室)の看護婦たちは言う。「鍾院士の注意深さや心配りには、だれもかなわないのです。マスクのかけ方が正しくなければ、すぐに直してくれます。出張しても電話をしてきて、感染者のようすを聞くことを忘れません」
女医の何為群さんは、患者の緊急医療に携わったため感染し、入院をした。ある日、病室を見回った鍾さんが、彼女の病床をたずねて「誕生日おめでとう!」と言った。その日は彼女の誕生日だったのだ。こうした非常時でさえも、患者の気持ちを考える人は、鍾さんしかいないだろう。
体力には自信があるという鍾さん。北京医学院(現・北京大学医学部)で学んでいたときは、大学でも有名な陸上選手であった。1959年には、400メートル中障害ハードルの全国記録をぬりかえた。その記録は、大学内ではいまだに破られていない最高記録だ。スポーツが好きな鍾さんは、どんなに忙しくても、疲れていても、十分間さえあれば屈伸運動をしたり、腰を曲げたりして体を鍛えている。そのため今年66歳の彼は、まだまだ若いと自覚している。
しかし、SARSと闘い始めたころ、鍾さんは第一線で働くすべての医療従事者と同様、患者を救う厳しい仕事に身を投じた。過労の結果、健康を害してしまった。2月18日のこと、38時間寝ていなかった鍾さんは、全身が熱く感じ、めまいがして、少しも持ちこたえられなくなった。だが、彼は皆の前で倒れたのではなく、こっそり帰宅し、夫人の看護でわずか二日間だけ休んで、また仕事をつづけたのである。その後、彼はこう言った。「あのとき、体はもう耐えられなかったが、もし倒れたら、皆に大きな影響を与えた。それで、どうしても倒れるわけにはいかないと思ったのです」
鍾さんの指導のもと、広州市呼吸器疾病研究所は今までになく団結している。SARS――この未知の病魔を探究したため、研究所の医療従事者があいついで14人も感染した。しかし、生死の試練に直面し、落後した人や、怠けようとした人は一人もなかった。ある医者は重症患者に挿管手術をおこなったさいに感染し、3日後に倒れてしまった。呼吸困難におちいり、心拍数は一分間にわずか40回でしかなかった(大人はふつう一分間に約70回)。しかし、この医者は健康を回復後、すぐにまた仕事に身を投じたのである。
親愛なる若い同僚たちがあいついで倒れていくのを目にし、鍾さんの心は言い知れない悲しみに満ちた。そして、「これはまさに硝煙のない戦争だ」とつぶやくのだった。
2月18日、北京の中国疫病予防抑制センターから「広東省が送った死亡病例(二例)の肺組織標本から、典型的なクラミジアウイルスが発見された」という知らせがあった。SARSはクラミジアによる感染病で、抗クラミジアの薬を使えば、二週間で治癒するという。
同日午後、広東省衛生庁は緊急会議を開き、参加者の意見を聞いて、討論をした。鍾南山さんはしばらく考えてから、頭を横にふった。その結論を否定したのだ。彼はこう言った。「それは調査研究に欠けており、臨床の角度からまじめに認識していない。クラミジアでは、これほど重い肺炎を引き起こせない。また、われわれは抗クラミジアの薬を大量に使ったが、まったく効果がなかった。クラミジアは致死の原因になりうるが、発病の原因ではない」。その論証により、会議は結局、彼の意見を受け入れた。
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地方の疾病予防治療部門が学校でSARS予防の指導者を行った |
会議の後、ある友人が彼に言った。「あなたが否定したのは、北京から来た権威の『結論』だったのですよ。もし、あなたの意見が間違っていたら、どんな結果になることか」。鍾さんは言った。「科学は事実に基づいて、真理を求めることしかできません。私たちが見た事実が権威のものと違えば、尊重すべきは、権威ではなく事実です」
その後の事実は、鍾さんの意見が正しかったことを証明した。
やがて、鍾さんは国際協力を展開し、SARSの病因を共同探究するよう呼びかけた。この正しい提唱は、広東省衛生行政管理部門のある幹部の反対にあったが、意志を貫く鍾さんは「SARSは人類がともに遭遇した病気であるため、国際協力の展開は、SARSを克服する唯一の道である」と主張した。
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国と政府が第一線でSARS予防装備を提供した |
彼の呼びかけにより、広州市呼吸器疾病研究所など八つの医療機関が香港大学医学院と「連合攻関チーム」を結成、SARSの治療方法を共同研究している。4月12日、鍾南山さんを中心とする同チームは、広東のあるSARS患者の分泌物から、新種のコロナウイルスを二つ分離した。そのコロナウイルスの変種の一つは、SARSの主要原因かもしれなかった。4日後、この結果はWHOに正式に認められた。
4月4日、中国のある権威者が「SARSはすでに中国で効果的に『控制』(制御)した」と語ったが、数日後、鍾さんは別の記者会見で、「『効果的な控制』を、『効果的な遏制(抑制)』に改めるべきだ」と言った。一字の違いに過ぎないが、鍾さんには大きな違いであった。彼はこう説明した。「『控制』の前提は、病原体を発見し、それを処理する方法も見つけるということだ。しかし、今の段階では、病原体は一部しかわかっていない。感染ルートや感染源も未知なのだ。われわれが今できるのは、病気を一日も早く治し、死亡率や発病状況を減らすことだけだ。それで『遏制』という言い方は、より科学的なのだ」(写真提供 NEWSPHOTO)
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