ユネスコ文化遺産保護賞
江南民家を守りぬく

                                    文 李遜生 写真 郭実

 
高層ビルの谷間で、しっかりと保存された張雲鵬故居

 江蘇省の古い街、鎮江市の倉巷69号に、張雲鵬故居がある。このほど、ここに、ユネスコから一通の手紙が届けられた。

 この住宅に現在住んでいるのは、張雲鵬の息子の張松本さん、張松祥さんの兄弟である。二人がこの手紙を開けて見ると、そこには英文で、彼らが長年にわたり保存してきた父親の住宅が、ユネスコによって、2000年のアジア・太平洋地域の文化遺産保護賞に選ばれたことが記されていた。これを読んだ兄弟は、感激し、狂喜したのだった。

 

歩むにつれ変わる景色

 張雲鵬という人物は、江南地方に生きた一代の名医であった。清の時代の大学士で、三代の皇帝に仕えた元老、張玉書の7代目の子孫に当たる。1900年に生れ、1958年に病没した。彼の住宅は民国(1911〜1949年)の初期に建てられ始めた。

 この古い住宅の大門を入って進むと、古くて素朴ながら、典雅な世界が眼前に広がる。それはまさに、精緻な一幅の江南の絵図を見るようだ。

ユネスコの文化遺産保存賞を受賞した張松本、張松祥兄弟

 住宅の広さは550平方メートルで、ここに「疎」「漏」「透」「痩」の四文字で表現される典型的な江南の庭園式住居が建てられ、全部で四つの中庭をもっている。

 第一の中庭は、小さな花園になっていて、庭の西側に小さな建物がある。庭の中は黒いレンガが敷き詰められていて、塀には一面に苔が生え、ツタで被われている。一株の、樹齢百年にもなろうというフジの樹が、庭のまん中に茂り、幽玄と静寂を感じさせる。

 第二の中庭の棟の壁板や窓には、浮き彫りがたくさん施されている。紙や筆、硯や墨、琴や碁将棋、吉祥如意や八仙渡海などが浮き彫りの題材になっている。

 第三の中庭には、満月をかたどった「円月門」があり、門の上には「聴雨」の二文字が書かれている。この門の外には「半辺亭」という亭があり、その亭の外に芭蕉の木がある。雨が降ると、亭内で、芭蕉の葉をたたく雨の音をうっとりと聴いて楽しむことができる。それもなかなか趣のあるものである。

 張雲鵬故居の母屋は、三つの大きな部屋からなっており、大広間の中に置かれたテーブルや椅子、書画などすべての配置が、歴史を感じさせ、明、清時代の生活の息吹に満ちている。

異彩を放つ文物

 張雲鵬故居は、その美しい江南の庭園式の古い建築によって人々の賞賛を集めているばかりではない。邸内には人々をびっくりさせる珍しい文物がたくさんある。

 屋根の軒の先端に置かれた昔の貨幣の形をした瓦当から地面に敷き詰められた大きな四角いレンガまで、廊下や窓枠に施された精緻な彫刻からそれぞれの門の柱に文人が書いた文字まで、また大門や横門から邸内の敷石や門の礎石、石のテーブルや腰掛けまで、こうした多くの文物はみな、江南ばかりでなく全国でもそう多く見られるものではない。

幽玄で雅な庭の中で、茶を楽しみながら語らう

 第三の中庭は、地面が大きな四角いレンガで敷き詰められている。ひとつひとつのレンガは、64センチ四方、厚さ20センチで、重さは50数キロもある。江蘇省文物管理局の専門家の鑑定によると、このレンガは北京の故宮にあるものとよく似ており、いずれも明代に、江蘇省昆山で造られたものだという。これらのレンガは、ゴマ油と土を混ぜ合わせ、何回もこれを打って作られたといい、その製作には半年もの時間がかかったという。そのためこのレンガは「金磚」と呼ばれている。

 張家の兄弟は、小さいころ、父の張雲鵬からこんなことを聞いたことがある。それは、鎮江の南門大街にあった張家の祖先である張玉書の家の門の上に、皇帝から賜った「二竜戯珠」(二匹の竜が珠とじゃれる)の図が彫られた石が置かれていたが、後になくなってしまった、という話である。

 しかし、後に南門大街を拡幅改修したとき、思いもかけずこの石が出てきた。それが道端に打ち捨てられていたのを知った張兄弟は、すぐに人を雇ってそれを持ち帰らせ、張雲鵬故居に安置したのだった。

壊すか保存するか

 張雲鵬故居が長い風雪に耐え、幾多の変遷を経て、今日なお昔の姿を保つことができたのは、張兄弟の大きな努力に負うところが大きい。

 抗日戦争中、鎮江は攻め落とされ、張家も田舎に避難した。その後、鎮江に帰ってみると、家の大門は日本兵によって叩き壊され、化粧台にも刀の切り傷が残されていた。

母屋の客間は、明代、清代の風格を保つようしつらえられている

 「文革」の時期には、張家にあった一部の書画が没収されたが、幸い、邸内の木彫は、石灰で塗り込められ、災難を免れた。1969年に、地元の政府が邸内に防空壕を掘ろうとしたが、三室ある母屋がすでに東へ15度傾いていて、危険住宅になっていたため、防空壕は別の場所に造られることとなった。

 1992年に鎮江では、大規模な旧市街の改造が実施された。その計画の中で、張雲鵬故居のある区域の古い住宅は、全部取り壊されることが決まっていた。ある不動産開発業者が、張家の兄弟が取り壊しに同意すれば、6戸の住宅と20万元の現金、総額150万元を出すと申し出た。

「聴雨」の二文字が書かれた「円月門」

 張雲鵬故居を取り壊すか壊さないか――張兄弟は繰り返し考えた。壊せば、祖先に対し申し訳ないだけではない。もっと重要なことは、この歴史や文化の遺産が一瞬にしてなくなってしまう。しかし壊さなければ、故居を改築・補強しなければならず、そのために数十万元の資金が必要だ。

 考えた末、張兄弟は、金銭の誘惑に負けず、ついに壊さないことを選択したのだった。

明代から保存されてきたレンガの浮き彫り
明代から伝わる古い貨幣をかたどった石

 1994年、張兄弟は地元政府の関係部門の支持を得て、自ら20万元の資金を準備し、故居の改修工事を始めた。改築した後にも昔ながらの姿を保つように、使う材料の大部分は、古い住宅を取り壊して出てきたしっかりした古材であった。

 もともとこの住宅建築には、一本の釘も使われていなかった。そこで建て直しの時も、全部、木のホゾとホゾ穴を使って、組み立てた。庭の一木一草もみな、ビニールシートで包み、それをしっかりと被って傷つかないようにした。

回廊の欄干に施された彫刻

 再建工事の中でもっとも難しい問題は、大量の小さな黒いレンガをどうやって補充するかであった。故居の黒いレンガはみな、清朝末期から民国初期に造られたものだ。どのようにすればこのレンガを探し出せるのか。張兄弟は毎日、勤務が終わると、旧市街で取り壊しがあったところに駆けつけた。廃墟の中を両手で掘り、血だらけになりもした。こうやってついに、数万個の黒いレンガを探し出したのだった。

 半年以上の努力のすえ、もともとの姿と風格を保ちつつ、なお建設当初の輝きを発する古民居建築が人々の前にその姿を現したのだった。

 1998年10月、ユネスコの係官と文化財保護の専門家がこの張雲鵬故居を参観した。彼らは、この住宅の構造、庭の配置、さらにさまざまな景観や文物に対し、感嘆の声をあげるばかりだった。そして張雲鵬故居が豊富な文化的価値をもっていると認め、この文化遺産の保護の面で張松本、張松祥兄弟が果たした貢献を賞賛し、敬意を表したのである。