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伝染病――それは突然、人類を襲ってくる病魔である。多くの犠牲のうえに一つの病魔が制圧されても、また新たな病原菌が襲ってくる。人類の歴史はこの繰り返しだった。
新型の肺炎、重症急性呼吸器症候群(SARS)も、その一つである。それは初めのころ、正体がわからなかった。そのため、対策が後手に回った。しかも改革・開放の社会では、人の移動は激しい。感染が拡大するのは避けられない。だが、新しく選ばれた指導部の果断な措置と、人々の必死の奮闘によって、ついに6月、北京のSARS感染地区指定と渡航延期勧告が解除された。
しかし多くの人々が病魔の犠牲となった。人々の生活は大きく制限され、経済活動も大きな影響を受けた。SARSのもたらした被害は大きい。
だが、ものごとには常にマイナスがあればプラスもある。指導部への人々の信頼、医師や看護師の示した自己犠牲の精神、社会全体の公衆衛生や道徳心の向上……。
私たちは、SARSの脅威の下で揺れた社会を内側から見てきた。これはその現場からの報告である。
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特集 (その1)
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危機に立ち向かった新政府 |
李耀武 |
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イラスト・徐進 |
4月下旬から5月上旬にかけての数日間、北京のSARS患者は一日に約百人の割で増え続け、人々は恐れおののいた。
4月24日早朝、「人民病院が隔離された」という情報が、市民の間を駆け回った。人民病院は北京・西城区にある有名な総合病院で、その信頼性は高い。『人民中国』雑誌社から、約500メートルしか離れていない。
もともとこの病院には伝染病科はなかったが、SARSが突発したあと、人民病院もSARS患者の治療に積極的に加わった。しかしSARS患者を収容し、治療する過程で、90人以上の医師と看護師が相次いでSARSに感染し、正常な業務が継続できなくなった。
こうした状況の下で院長は、北京市政府に対し『中華人民共和国伝染病防治法』の「隔離」条項を発動し、人民病院と外界との感染の連鎖をできるだけ早く切断することを緊急に請求した。これを受けて市政府は、直ちに関係部門の指導者を招集して状況を検討し、対策を立て、徹夜で作業を行った。そして明け方の5時ごろ、人民病院の隔離が完了した。
北京で、全体が隔離されたのは、この人民病院が最初である。24日正午には、さらに二つの大学にある四棟の宿舎ビルが、SARS患者の発見により隔離された。こうして、約3万人が、隔離エリアに入った。
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SARSの流行期間中、北京に出入りする主要な道路では、車両や運転手、乗客に対する登録や消毒、体温測定が行われた(撮影・范湧) |
その日の午後、本誌記者(李耀武)は現場に行って見た。そこには数人の警官が警戒線の中で勤務しており、傍らに救急車が数台、停まっていた。病院の中では医療関係者が忙しそうに行き来していた。門の前の街路樹には、千羽鶴や「中国結」という紐を編んだ吉祥のお守り、五色のテープ、縁起の良い言葉を書いた紙の札が懸けられていた。これは、隔離エリアに収容されている人々に対する市民からのお見舞いの気持ちを表していた。
数日後、本誌記者が住む住宅区でも、SARS患者が発見された。患者は病院に収容され、患者が住んでいたビルの同じ出入口を使うすべての家庭が隔離された。隔離された人々は、自分の家の中で、政府が派遣する医師と看護師の診察を受けた。また、臨時のサービス員が無料で食事を差し入れた。
それから2週間経って、隔離は解除された。人民病院の場合は、感染の状況がより複雑だったため、3週間後に隔離解除となった。この時期にはいつも、学校、社区(コミュニティー)、建設現場などの一部が隔離されたり、隔離が解除されたりという情報が流れた。
隔離は、必要な措置であった。これはSARSとの間に防衛ラインを築き、その伝染の連鎖を切断して、さらに多くの人々を伝染病から遠ざけることを保証したからである。
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隔離エリアで働く医療人員は、七重の防護服をまとい、病院側は食事を差し入れた(撮影・范湧) |
4月下旬、北京では、SARS患者を収容するよう指定された病院が6カ所から11カ所に増えたが、ベッド数は依然、不足していた。市政府は、医療専門家チームの意見を聞き、まったく新しいSARS専門病院を一つ、建設することを決めた。こうすれば、第一に、これ以上、SARS収容の指定病院を増やす必要がなく、その他の患者の収容・治療に影響を及ぼさず、院内感染の確率を減らすことができる。第二に、SARSの専門病院を新たに建設し、SARSの医療専門家と先進的な設備を集中することによって、SARSに対する研究を深め、治癒率を高め、他の病院に対し技術指導を行うことができる。
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北京・小湯山病院で初めての退院したSARS患者(newsphoto) |
SARS専門病院の建設のスピードは当然、速ければ速いほどよい。なぜなら、そのころは、建設速度が速ければ速いほど、多くの生命が救われるという状況だった。
医療専門家の予想を上回って、このSARS専門病院はわずか七日間で完成した。「まるで病院が天から降ってきたみたいだ」とある医者はつぶやいた。
建設を担当した北京市建設委員会によると、この建設には四千人から七千人が動員され、夜を日に継いで、設計をしながら施工し、設備を設置し、その調整や試運転をしながら接続するというやり方だった。それは完全に、戦時下のような状態だったという。
こうしてできたのが、小湯山病院である。小湯山は北京市の北20キロにある温泉の湧く名所で、病院の名前はここに由来する。環境はよく、交通は便利で、周囲の地形は広々としている。病院の敷地面積は122ムー(約8ヘクタール)で、建築面積は2万5000平方メートル。ベッド数は1000床。1200人の医師と看護師は、すべて解放軍からきた優秀な人たちだ。
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北京市の疾病予防コントロールセンターでは、SARSのウイルス検出作業が続けられた。(撮影・范湧) |
小湯山病院は現在、中国では一流の、世界では最大の伝染病専門の病院である。この病院の建設によって、北京のSARS患者を収容し、治療する難問題は根本的に解決された。
これから後、「小湯山のスピード」という表現を、メディアがよく使うようになった。例えば、北京SARS対策連合工作組と世界保健機構(WHO)が共同で開設し、重要な役割を発揮した「プレスセンター」も、わずか3日で建設されたが、これも「小湯山のスピード」と言われた。
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北京市の疾病予防コントロールセンターは、SARSの流行期間中、いつでも医師や技術者を乗せた検査車を出動させ、伝染病の発生した地区で検査と予防活動を行った(撮影・范湧) |
SARSは、政府にも試練を与えた。特に新しい世代の中国の指導者はその資質を試された。
4月20日、国務院新聞弁公室はSARSに関する記者会見を挙行し、国務院副秘書長で新任の衛生部副部長の高強氏が、衛生部の主要担当者のこれまでのSARSとの闘争の仕事に足りないところがあったとして、国民に対し反省すると表明した。
そして国務院の温家宝総理と、「全国SARS対策総指揮部」の総指揮と衛生部長に就任したばかりの呉儀副総理は、過ちを部下に転嫁することはなかった。温家宝総理は4月29日、タイのバンコクで開かれた中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)のSARS特別会議に出席し、中国政府はSARSとの闘争の初期に誤りがあったことを認める、と発言した。また呉儀副総理は5月中旬、ジュネーブで挙行された第
回世界衛生大会の席上、同様の発言を行った。指導者のこうした誠実な態度は、広く好評を博した。
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6月24日午後3時8分、世界保健機関(WHO)の西太平洋地区主任、尾身茂博士が北京で、WHOが出していた北京への渡航延期勧告を取り消すとともに、SARS感染地区の名簿から北京を消除すると宣言した(左は尾身博士、右は中国衛生部の高強常務副部長) |
SARSが猛威を振るっているとき、胡錦涛総書記と温家宝総理は、「当面の党と政府の第一の任務は、SARSとの闘争である。なぜなら人民の生命と健康より大切なものはないからだ」と、果断に提起した。二人はそれぞれ、感染がもっともひどい省や市を視察し、隔離されている人々を見舞った。
広東省で胡錦涛総書記は、SARS患者を救護する第一線に立っている医療関係者に、自分自身をしっかり守らなければならないと言い、彼らに対し深々と頭を下げて、「人々の身体の健康と生命の安全が重大な脅威にさらされていることに心を痛めています」と述べた。
温家宝総理は、バンコクで中国大使館館員や留学生と接見したとき、「夜も眠れない。いつも涙を流している」と言い、北京の学生たちに対しては「我々は同じ舟に乗っているのだから助け合おう。苦難を乗り越えて国を発展させよう」と呼びかけた。
SARSとの闘争の日々の中で、中国の新しい指導者たちは、人々に親しまれるイメージを残したのだった。
4月初め、胡錦涛総書記は、「科学的な予防と治療が必要である。最終的にSARSに打ち勝つのは医科学である」と指摘した。彼は何度も医科学研究所や医科大学などを視察し、専門家たちがSARS研究の成果を引き出せるよう励ました。また彼は、SARSは全人類に降りかかった災難なので、中国の専門家たちに外国やWHOと積極的に協力し、ともに難関に挑むよう要求した。ここにも、胡錦涛総書記の、開放的で実務的なイメージが現れている。
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WHOの職員が北京市疾病予防コントロールセンターを視察した(撮影・范湧) |
温家宝総理は一貫して、法による行政を強調してきたが、SARSとの闘争のときも同じだった。彼は衛生部に対し、WHOの文書に基づいてSARSを伝染病の範疇に入れ、『中華人民共和国伝染病防治法』に基づいて行政を進め、とりわけ各クラスの役人の責任を明確にするよう指示した。
報道されたところによると、SARSとの闘争が始まってから、衛生部長と北京市長を含む120余人の役人が、職務を涜したとして責任を追及された。このように法律に従って厳しく行政を行うことは、以前にはめったに見られないことである。
SARSと闘う非常時に、温家宝総理は自ら主宰して『突発的な公衆衛生事件の応急条例』を制定した。この条例の制定から発効まではわずか20日間で、これは温家宝総理の法による行政のイメージを十分に表しているばかりでなく、新しい政府の効率の良い仕事ぶりをも示している。
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