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小学校の運動場に舞台が造られる |
中国の伝統劇は、かつて、庶民に最も愛されていた娯楽の一つだった。各地域に多種多様の伝統劇があり、統計によれば、その形式は三百種以上にのぼる。
しかし、社会の近代化に伴い、伝統芸術は大打撃を受けた。特に、都市の専業劇団の公演が大幅に減少したことが観客減少に拍車をかけ、伝統劇は苦境に追い込まれている。
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一方で、広大な農村地区での人気は相変わらず高い。一部の県クラスの劇団は、生き残っていくために、劇団を数グループに分けて、農村での巡回公演を行うようになった。農村では、役者と観客は、依然として魚と水のような関係で、農民が大部分を占める観衆が役者の生活を支え、伝統劇が農民たちの欲望を満足させている。
筆者は、「山西省翼城県劇団」の農村公演に同行し、5日間、生活を共にした。そして、民衆がいかに伝統劇を愛しているかを体感し、役者たちの苦楽を目に焼き付けた。
東岳廟の舞台
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開演数時間前でもこの人出 |
山西省浦県の東岳廟は元代の建築物で、広々とした境内には、古い舞台が残っている。
毎年、旧暦3月28日からの数日間、東岳大帝(泰山を主宰する神)の誕生を祝う廟会(縁日)が開かれ、この舞台を利用して3〜5日間の伝統劇公演が行われる。特に、東岳大帝の誕生日の前夜には、夜通しで芝居を行う習わしだ。この廟会の頃になると、周囲約50キロ内の村に住む農民たちも、われ先にと浦県に集まって来る。
2002年の廟会に招待されたのは、私が同行取材した「山西省翼城県劇団」だった。演じたのは、浦州ホウ(木に邦)子(「ホウ子」は戯曲の声調の一つ)である。
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『棋盤山』の中で、いたずら好きな竇仙童に扮する薛筱恵さん
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浦州ホウ子は、明代に浦州(現在の山西省永済県)で興ったため浦劇とも称される激しい感情表現が特徴的な劇で、四つの山西ホウ子の中で最も古い。のちに、徐々に山西省南部、河南省、陜西省などの一部地区でも行われるようになった。
劇団は、東岳廟の近くにある華佗廟を宿とした。男性は正殿、女性と四組の夫婦はそれぞれ脇の建物に寝泊まりした。廟は折りたたみ式の鉄製ベッドを用意したが、寝具は自分たちで持ってきたものだった。
県所属の同劇団は、1947年に創立され、84年に独立採算制に移行して以来、独自に公演の場を探すようになった。劇団員48人中、電気工と料理担当以外の全員が役者だが、それぞれが裏方の仕事も分担している。彼らの生活は安定せず、楽ではない。農繁期と酷暑の日を除いては、年間約200日、約400回の公演を各地で行い、一回の舞台での劇団の収入は、600〜1000元ぐらいである。
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東岳廟の古い舞台には、幕も背景もはい。舞台裏には、幅約二メートルの細長い空間があり、両側にそれぞれ「出将」「入相」という入り口がある |
劇団員は、収入を増やすため、舞台公演のほかにも、連れ立って農家を回り、歌や踊りを披露する。これを「堂会」と呼ぶ。山西省南部の人々は伝統劇が大好きで、結婚式や葬式はもちろん、出産、誕生日などのお祝いの際にも、自宅に役者を招く。最近では、流行に敏感な依頼主の求めに応じ、若い役者は、人気のポップスまで歌えるようになった。
五十歳の団長・薛耀宝さんは、八歳で劇団に入り伝統劇を学び始めた。かつて、北京の李万春氏の下で猿芝居を学び、孫悟空を演じる基礎を身につけたため、「浦劇美猿王」と称えられている。
48歳の夫人・王水娟さんは、女形の役者で、『探寒窯』で王宝釧を演じ、その悲哀を感じさせる演技で、観客の心をつかんでいる。
18歳になる娘の薛筱恵さんは、12歳から芝居を学び始め、中学を卒業してから戯曲学校に入学した。卒業後、実習生として劇団に入り、今では主役も張るようになった。『紅ララ烈馬』で扮した洒脱な皇女、『棋盤山』で扮したいたずら好きなシ仙童、『武松殺嫂』で扮した悩み多き潘金蓮など、その演技は生き生きとしている。劇中では、美しく元気で、何でも出来てしまう彼女だが、実生活では物静かな女性だ。
トラックに乗って巡回
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若い役者は、どこに行っても早朝の稽古を欠かさない |
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「道具」用と「人」用の二台のトラックが活躍する |
3日間の公演が終わった翌朝早く、劇団員は、100キロ以上離れた次の公演地・洪桐県崔家荘へ向かう準備を始めた。
50人に満たない小劇団でも、舞台道具は40箱以上になる。丈夫そうな木製の箱は、どれも数十年前から使われてきたもので、角は鉄で補強されている。箱の長さは2メートル、高さと幅は各1メートルある。
舞台道具は、女形・男役などの衣装、武者役の衣装、下着やズボン、
靴、かぶとや冠、刀や槍などの小道具、楽器、照明器具、音響機器などに分類して、箱に印をつけて片付ける。箱は非常に重く、数人で協力してようやく動かせるほどだ。そのため、舞台からトラックに積み込むだけで2時間も掛かり、役者兼裏方の劇団員たちは、みな汗まみれになった。
この日やってきたのは、2台の大型トラックだった。一台に荷物を積み、一台に人が乗る。劇団員によると、最近では、バスで移動し、トラックに乗ることは少なくなった。トラックでの移動が一般的になる前には、馬車で移動したり、馬車に荷物を積み、人は自転車で移動したこともあったという。
役者兼裏方の忙しい毎日
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手の空いた劇団員から順番に食事する |
未舗装の道を進み、午後2時、ようやく山際の次の公演地に着いた。
この洪桐県崔家荘では、新道の竣工を機に、劇団を招いて5日間のお祝いをした。道端には各種屋台がたくさん並び、村は市場のように賑やかになった。
臨時の舞台は、小学校の運動場に設けられた。ただ、道が狭く、小学校の近くまでトラックが入れなかったため、まず、舞台道具をトラクターに載せて、何度かに分けて運ぶことになった。その間、徐々に気温が上がったため、劇団の男たちは上半身裸になり、村人に手伝いをお願いして、一緒に荷物を運んだ。
私たちが到着した時、運動場にはすでに、鉄パイプとビニールシートで舞台の骨組みが造られていた。舞台道具や楽器を舞台に載せ、衣装ケースは、臨時の楽屋として使う教室に置いた。
衣装担当は、ケースを開けて、まず両手で布人形を取り出し、衣装棚の上に置いた。この人形は戯曲の神・唐の玄宗である。電気工の鄭さんは、一人の劇団員の手を借りて、音響設備や照明を設置している。2人の18歳の「武生」(立ち回りをする男役)は、器用に高さ5、6メートルの鉄パイプに登り、慣れた手つきで幕を張り付けた。
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長年大切に使われている化粧ケース |
夕方6時頃、舞台づくりを終えた劇団員たちは、お互いにかめの中の水を掛け合ってシャワー代わりにし、汗を流した。そして、急いで食事を済ませメークに取り掛かった。公演は夜8時に始まり、夜中の12時にようやく終わった。
翌日の公演は、昼12時開演の予定だったが、朝八時には、まずは子ども、続いて老人が長椅子を手に運動場に集まり始めた。村が劇団を招いたのは約60年ぶりのこと。村人の興奮は、開演前から相当なもので、十時過ぎには舞台前は足の踏み場もなくなってしまった。
しかしあいにく、通り雨が降り、観客はあわてて舞台上へ逃げ込まざるを得なくなった。しかも、舞台の屋根代わりにしていたビニールシートのあちこちから雨がもれた。劇団員たちは、村人に協力してもらい、じゅうたんや舞台道具を教室に運び、雨が止むのを待つしかなかった。
しばらくして雨が止み、観客は席に戻り、劇団員は改めて舞台の準備を始めた。運動場は泥沼のようになっていたが、村人たちは持参した長椅子に座り、今か今かと開演を待った。舞台上は水浸しになったため、きれいに掃除した後、改めてじゅうたんを敷き、各種準備を整えて、待ちに待った公演が幕を開けた。
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