北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第21話)
紫禁城の秘話――清

                    文・李順然 写真・劉世昭

 

太和殿での即位式典の玉座で
「おうちに帰る」と泣き叫んだ宣統帝
乾清宮の玉座の上に「正大光明」の額
額のうしろに隠された楠の小箱
その中に次期皇帝指名の「極秘」の勅諭が
養心殿には二つの玉座
幼帝の玉座と簾を隔てた西太后の玉座
これこそ「垂簾の政」である

 

太和殿と皇帝即位

太和殿は、故宮の中でもっとも高く、もっとも大きい宮殿である

北京に入った清朝は、明朝の皇居だった紫禁城を、基本的にそのまま皇居として使いました。が、門や御殿の名前を変えたところもあります。

 例えば皇居を囲む皇城の南の正門である承天門を天安門と変え、皇城の東西両側と北の門を、それぞれ東安門、西安門、地安門と変えています。また、皇帝が国政を聴く「外朝」にある三大殿も改名しました。皇極殿を太和殿に、中極殿を中和殿に、建極殿を保和殿にです。

 新しい名称には、いずれも「安」か「和」の字が使われており、北京に入城した清王朝の「外安内和」(外に安寧、内に和睦)という安定・平和を願う気持の現われだとする学者もいます。皇居の建物が持つ役割も、明朝のしきたりを受け継いでいます。皇帝の即位、皇后の冊立、皇帝の婚礼などが主殿である太和殿でおこなわれるのも、明朝時代のままでした。そんなわけで、太和殿では明、清の24人の皇帝が即位の儀をおこなっています。

太和殿の内部には、透かし彫りの竜の彫刻に金の蒔絵を施した玉座があり、玉座の上方には、とぐろを巻いた竜が珠とじゃれる図が描かれた天井画がある

 太和殿で最後に即位の儀を挙げたのは、清のラストエンペラーとなった宣統帝、溥儀(1906〜1967年)でした。光緒34年(1908年)12月2日のことです。西太后から皇帝に指名された3歳の溥儀が、父親である摂政王、載聽に抱かれ、太和殿の玉座に座らされて即位の儀がおこなわれたのです。そのときにこんなハプニングが起きました。

 大声をあげて「おうちに帰りたい」と泣きさわぐ溥儀を、父親の載聽が「泣くんじゃない。もうすぐおしまいだ」となだめすかして、太和殿の高くて大きな玉座にむりやり座らせ、あたふたと儀式を終えたというのです。載聽の口からでた「もうすぐおしまいだ」ということばを耳にした参列者のあいだでは、清王朝も「もうすぐおしまいだ」という不吉な予感が漂ったそうです。

 たしかに、その3年後の宣統3年(1911年)11月20日、隆裕皇太后(1868〜1913年)が宣統帝(溥儀)退位の詔書を出し、清王朝はその295年の歴史にピリオドを打っています。

 ついでに、太和殿と関係のあるできごとをもう一つ。日本とかかわりのある話です。

 1945年10月10日、太和殿で日本軍降伏の儀式が行われているのです。日本の華北方面軍司令官の根本博中将から中国の第11戦区司令官、孫連仲将軍に降伏状が手渡され、日本軍の北京占領の歴史に終止符が打たれました。紫禁城太和殿のあまり語られない歴史のひとこまです。

乾清宮と帝位継承

公式行事を行う場であった「外朝」の三大殿から北に行き、乾清門をくぐると、緑が目に入ってほっとします。「外朝」には草木がまったく生えていないからです。乾清門を入ると、そこは内庭、つまり皇帝の個人生活が営まれるところで、その最初の建物が乾清宮です。ここは皇帝の住居兼執務室でした。

 乾清宮の玉座のうしろには、「正大光明」という四文字を書いた額が掛っています。順治帝の筆によるものです。この額は、清朝の皇位継承では大きな役割を果してきました。

 四代皇帝である康煕帝(1654〜1722年)は、皇子たちが争いあい、後継者選びでたいへん苦労しました。あとを継いだ雍正帝(1678〜1735年)は、その教訓を汲み取り、新しい後継者指名制度を定めました。秘密指名制度です。

 長男、次男といった序列にとらわれず、皇帝みずからが最適任と思う皇子を後継者に選び、「極秘」として公表せず、その名を記した勅諭を箱に入れて封をし、乾清宮の「正大光明」の額のうしろに置いておくのです。

清朝初期には、乾清宮は皇帝の寝宮であった。そこに掛けられた「正大光明」の額の後ろに、次期皇帝の名を書いた箱が置かれた

 同時に、これと同じ内容の勅諭を皇帝自身の手元にも残しておきます。そして、皇帝の没後に、この二部の勅諭を付きあわせて、そこに書かれていた名前の皇子を後継者にするというものです。

 雍正帝はこの方法で乾隆帝(1711〜1799年)を後継者に指名し、続く嘉慶帝(1760〜1820年)、道光帝(1782〜1850年)、咸豊帝(1831〜1861年)も、この秘密指名制度で皇帝に選ばれています。当時の条件のもとで、この制度は皇位継承問題での紛争を防ぎ、皇帝の統治力を保つうえでよい役割を果した、というのが、大方の学者の見方です。

 ちなみに、この次期皇帝秘密指名に使われた楠の小箱と、道光帝直筆の指名の遺諭が見つかり、中国第一歴史資料館に保存されています。

 乾清宮は皇帝の住居、執務室であるとともに、社交の場でもあったようです。皇帝主催の宴会も開かれました。

 よく知られているのは、清の黄金時代だった康煕帝、乾隆帝の世に開かれた「千叟宴」でしょう。「叟」とは男性の老人のことで、文字通り皇帝が千人のお年よりを乾清宮に招いて開いた宴会です。乾隆49年(1784年)の「千叟宴」には4000人近くのお年寄りが招かれ、90歳を超えた人たちは皇帝のテーブルの近くに座り、一緒に食事をしたそうです。皇子、皇孫も、お年寄りの接待にあたり、帰りにはお土産もあったと史書には記されています。敬老の行事だったのでしょう。

養心殿と垂簾の政

養心殿の東暖閣では、西太后が「垂簾の政」を行った

 乾清宮の西側、壁一つ隔てたところにあるのが養心殿です。東西80メートル、南北63メートル、敷地5000平方メートルという小さな御殿ですが、清朝の歴史上、数々の重大事件の舞台となっています。

 まず北京入りして紫禁城に住んだ最初の皇帝、順治帝(1638〜1661年)が、この養心殿を書斎兼執務室として使い、ここで康煕帝を皇帝に立てる遺言を残して病死しています。天然痘でした。

 康煕帝もここで執務したり、書作を楽しんだりしています。仕事熱心だった雍正帝は、寝宮を乾清宮からここに移し、夜遅くまでここで政務を処理していたようです。その後の乾隆帝、同治帝もここを愛用し、ここで息をひきとっています。

 咸豊11年(1861年)に咸豊帝が死ぬと、朝政を一手に握った西太后(1835〜1908年)が、同治帝(1856〜1875年)、光緒帝(1871〜1908年)を「垂簾聴政」(すだれの裏から政治をとりしきる)であやつったのも、ここ養心殿でした。養心殿東暖閣の玉座のうしろには、黄色いカーテンを隔ててもう一つの玉座が設けられ、ここに座った西太后が、前に座った幼帝の頭ごしに、いろいろ命令をだしたのです。これが「垂簾の政」です。

 養心殿のなかでも、東側の東暖閣とならんで有名なのは西側の三希堂です。三希堂は、風流皇帝、乾隆帝が天下の名筆とされる王羲之の「快雪時晴帖」、王献之の「中秋帖」、さらに王 の「伯遠帖」の三帖、つまり「三希」を手に入れた喜びを込めて名づけた書斎です。

 三希堂は北側の次の間と主室をあわせても12平方メートル、南の窓に面している主室はわずか5平方メートルに過ぎませんが、乾隆帝はこの小さな、小さな書斎をこよなく愛し、四十数年にわたって、冬になるとここに入り、書斎の一角に置かれた紅木(マホガニー)の箱から王羲之らの書を取りだし観賞し、また詩を作って楽しみました。三希堂の壁には、乾隆帝御題の「三希堂」という横額と「懐抱観古今、深心託豪素」という対聯が掛けられています。

 南側は間口いっぱいの一枚のガラス窓で、窓ごしに庭を望むことができます。暖かい陽光の差し込むこの質朴な小さな書斎に一人静かに座るときが、乾隆帝にとって最高のひとときだったのかも知れません。

 養心殿の後殿の五間は寝宮で、東の奥の間が皇帝の寝室でした。ここのベッドの上には「又日新」という横額が掛っています。目を覚した皇帝はどんな気持でこの三文字を見て新しい一日を迎えたのでしょうか。

乾隆花園と珍妃の井戸

 乾隆帝は長寿でした。嘉慶四年(1799年)に89歳で亡くなっています。乾隆帝は60歳の誕生日を迎えると、在位60年に皇帝の座を息子に譲ると発表しました。祖父の康煕帝が在位61年だったので、それを超えてはならないという思いがあったのでしょう。

 そして紫禁城の東北の一角で、退位後の自分の宮殿とする寧寿宮の拡張工事を始め、その西隣りに憩いの場である花園を造りました。寧寿宮花園、俗にいう乾隆花園です。

 乾隆帝は約束通り乾隆60年(1795年)に、在位60年で退位し、翌年の元旦に帝位を息子の嘉慶帝に譲っています。といっても、4年後の嘉慶4年(1799年)に息をひきとるまでは、お気に入りの養心殿に住み、いろいろ政治にも口を出し、事実上の皇帝でした。

 乾隆帝は寧寿宮にも、乾隆花園にも、それほど興味はなかったようです。ただ、乾隆花園で気に入っていたのは、入口の近くにある楸やコノテガシワの老木ぐらいで「長楸古柏は佳き朋なり」という御筆を残しています。

 乾隆花園は南北160メートル、東西37メートルという細長い敷地に、太湖石を積みあげるなどして、いろいろの風景を造りあげたものですが、ちょっと人工的な匂いが強すぎるという人もいます。

 乾隆花園で参観者の興味を引くのは、この花園の東北にある「珍妃の井戸」です。1900年に八カ国連合軍が北京に侵入し、紫禁城に迫ったとき、光緒帝の最愛の側室で、光緒帝の政治のもっとも良き理解者であった珍妃(1876〜1900年)が、西太后の命令で投げ込まれて死んだという小さな井戸です。珍妃は25歳でした。

 浅田次郎さんの小説『珍妃の井戸』(講談社)でも、この事件がテーマになっていますが、どさくさの中でのこと、謎につつまれているところも少なくありません。

 「明の城造り、清の庭造り」といわれるように、清朝は北京のあちこちで庭造りに力を入れました。次回は、ユネスコの世界遺産に登録されている頤和園など、清朝が北京に造った御苑めぐりを考えています。

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。