石で築かれた本寨のとりでと「チョウ楼」

本寨は、貴州省の西部、安順市西秀にある村落の一つである。山水にとり囲まれて、青々とした水田がつづく。210世帯、人口850人。この漢民族の村落は遠望すると、プイ族の石造りの村のようだ。村に入ると、まるで「軍事の要塞」である。村の手前に、防衛のために石を築いた堀がある。村の後ろに、厚くて高い石壁が築かれている。村の前方、後方、中央に、四階建ての「チョウ楼」(見張り用のやぐら)が七つ、そびえ立ち、村中を見守っている。

 

天竜鎮の原始的な鬼やらいのお面

   石で築いた「三合院」や「四合院」(庭を囲んで三つ、あるいは四つの建物が建つ伝統住宅)の民家には、門楼の両側にそれぞれ「銃眼」(外敵を射撃したり、監視したりするため防壁などに空けた穴)が設けられている。建物の窓はきわめて小さく、外側が狭く、内側が広い。これもまた銃眼である。ある壁には、あらゆる方向に射撃できるよう、十字型の銃眼が設けられていた。

 主人の案内で、チョウ楼の一つに登った。大きな石の塊が、もち米の粉と石灰をまぜて作った「接着剤」で築かれており、強固なことこの上ない。いずれの壁面にも、大小さまざまな銃眼が開けられている。石壁の隅にはまた、半円形に出っ張った石おけがあり、不思議に思って聞くと、守人のための厠だという。こうした石壁に付設された厠は、その形が江南地方の古い馬桶(便器)と、異曲同工の妙がある。

 地元の民家をくわしく見ると、中庭に面した窓格子の装飾であれ、美しいもようが刻まれた廊下の欄干であれ、中庭の排水口「古老銭」であれ、いずれも江南水郷の文化的な特色があり、地元のミャオ族、プイ族のものとは、はるかに異なっていた。

各家の壁の内には銃眼と、門のように開閉できる石板がそれぞれ設けられている。石板を閉めると、外敵を防ぐことができた

 平ハ県天竜鎮(町)の石造りの建物も、同じように軍事的な色彩が濃い。鎮の入り口には、城壁や城門が築かれている。鎮内の路地にも、歩哨をおいて見張らせた「巷門」という門がある。路地に並ぶ家々には、それぞれ「猫窓」が開かれている。部屋の小窓であるばかりでなく、射撃用の銃眼でもある。家の門は狭くて低い。もし、外敵が攻め入っても、彼らは頭を低くして突入し、家の中がよく見えない。そのときに、門の内側に構えていた守人が、外敵を攻撃したのである。

 研究によると、明の太祖・朱元璋(在位1368〜1398年)は、西南地方を鎮定し、軍隊の物資や食料補給の問題を解決するために、江南地方から20万の大軍を雲南、貴州、四川につかわし、屯田と国境警備に当たらせた。

天竜鎮の屯堡老人の装束

 当時、安順一帯は、雲南へ入る交通の要衝だった。肥沃な土地に水利設備が発達した平原地帯で、要道に沿って駐屯所が設けられた。将校や兵士の望郷の念をいやすため、江南から身内の者が移住してきた。また、商人や一般の人々も貴州に入り、辺境の地は大いに栄えた。当時、軍隊とその家族が駐屯したところは「屯」、商人や一般の人々が住んだところは「堡」と呼ばれて、「屯堡」と総称された。

 規定によれば、屯は町の中央に、堡はその周囲に置かれた。堡は、役人や行商人の往来を接待したり、書簡を取り扱ったりする責任を負った。当時、屯堡の多くは兵を率いた長官の姓から命名された。そのため、「章官屯」「周官鎮」「張官堡」などの地名が今に残る。

不思議な屯堡文化

 安順市および周囲の平ーモ、普定の各県、それと西秀、天竜鎮、本寨には、明代移住者の末裔である「屯堡人」があわせて約4、50万人いる。彼らは、ミャオ族、プイ族の居住地区に暮らしているが、土着文化を吸収しながら、基本的には明代の江南文化と、軍隊の伝統的な生活を守っている。

 天竜鎮を例にしよう。村落の住環境であるが、当時、4 人の将校が兵を率いて水を引き、鎮をつらぬく水流で水郷の景色をつくった。彼らは鎮に、高々と通りをまたぐ住宅を建て、江南風情の「過街楼」を懐かしんだ。毛氏一家は特別に、上海の古い建物を模した豪邸を建てた……。

 屯堡女性の服飾も、特色がある。娘はおさげ髪を後ろの方に垂らしているが、既婚者は頭の後ろに髷を結い、馬の尾で編んだネットでおおっている。彼女たちは、袖の広い右襟の長袍(長衣)を着て、腰には長いエプロンを巻き、ひもを結んで後ろ側に垂らしている。足のすねには脚絆を巻いて、つま先のとがった刺繍入りの平底靴を履いている。夏になると、わらじのようにひもで結ぶ布靴に履きかえ、風通しをよくするのである。彼女たちの服装からは、舞台で用いる明代の古装束が思い出された。

屯堡人の街道や住宅の門は狭くて小さい。とくに門を出入りするときには、頭を低くし、腰を曲げなければならない。これも外敵から身を守るために設計されたものだ

 天竜鎮の入り口に、宿場の茶屋があった。その茶屋が、巨大な陶罐でせんじた「苦茶」には、茶のほかに霊芝、甘草、ショウガのスライス、その他の漢方薬を加えている。これは、むかしの宿場が往来する兵士や飛脚、行商人にサービスをした飲み物である。のどの渇きを抑え、暑さ寒さを防ぎ、道中の無事と健康を守った茶であった。

 屯堡人はベーコンやソーセージを作るのがうまく、野菜の塩漬け、白菜の湯漬けを作り、煮詰めたラードをかめに貯める。こうした食物を保存する慣わしもまた、軍隊の旧習である。「糯米バー」や「ガオバー」(もち米の粉をこねて焼いた食べ物)を作ってかめに貯め、そのかめを水中に入れて保存する。やはり、江南水郷の食習慣であることがわかる。天竜鎮で食した「皮付き牛肉の煮込み」は、アッサリとしてやわらかく、おいしかったが、こうした屯堡独特の料理は、どこの飲食文化に属するものか、なお研究が待たれるところだ。

 天竜鎮の千あまりの世帯は、そのほとんどが陳、張、沈、鄭、毛という姓である。また本鎮では、「異なる姓」同士の結婚や、他郷の者との結婚も可能である。しかし、他郷から嫁入りした女性は「郷に入りては、郷に従え」で、「屯堡方言」と呼ばれる明代の標準語を話し、地元の風習にも従わなければならない。たとえば、新婦が嫁入りのため生家から出るときには、盛り上げたもみ米と、香やろうそくを挿し込んだ升を踏まなければならない。結婚後の衣食が満ち足りるようにと願うのである。さらに新婦は、垂らしていたおさげ髪を髷に結い、白い頭巾をかぶらなければならない。この風習のルーツも、軍隊の規則であるという。夫が出征すると、その生死のいかんにかかわらず、妻は頭に白い頭巾を巻きつけた。孝を尽くし、節操を守るという意味だった。

天竜鎮の三教寺で、老人たちが「祈福灯」をともし、子どもの平安無事と健康を祈っていた

 天竜鎮の祭りは、屯堡人の望郷の念を込めたものだ。たとえば毎年旧暦の7月15日、人々はカボチャをくりぬき、さまざまな形の「ちょうちん」を作る。油を入れて、火をともしたあと、カボチャのちょうちんを河に流す。祖先の魂を、故郷へと帰すのである。

 鎮の中心に置かれた「三教寺」は儒、道、仏の「三教合一」の寺院である。老女たちの休憩所であり、集会などを行う場所だ。三教寺は、屯堡人の伝統的な信仰習俗を残している。たとえば、中庭には銅製の灯台があり、高さは約4メートル。らせん状に油皿が置かれた灯台だ。敬虔な老女たちがよくここへやって来て、皿に油を注いでは火をともしている。最高段にある「玉皇灯」をともすと、家人の行商が繁盛することを祈り、下段の「竜灯」「鳳灯」をともすと、子どもたちの平安無事と健康を祈る。こうした「祈福灯」の習慣は、屯堡に残っているだけである。

原始的な鬼やらいの芝居

 天竜鎮ではまた、原始的で素朴な味わいの儺戯(鬼やらいの芝居)を見た。7人の役者がさまざまなお面をかぶり、戦いの衣服をまとい、戦旗を背負っている。頭にキジの羽を挿した武将たちが、手に手に異なる兵器を持って、ドラや太鼓の伴奏にあわせ、中庭で打ちあいをする。演目は『楊家将』である。宋王朝と遼国の交戦の歴史を描いたものだ。

 芝居が終わるのを待って、役者の一人でもあった陳師匠に話を聞いた。彼は今年五十五歳。劇団の元老であり、ほかの役者はいずれも彼の弟子だった。「地戯は、儺戯に属したものです。舞台に上らず、地上で芝居をするために、そういう名前がつきました」と言う。

 地戯の演目には『楊家将』のほか、『三国志演義』『説唐』『岳家将』などがあり、いずれも古代の戦争をテーマに表している。軍記物のため、役柄はそれぞれ文将軍、老将軍、小将軍、女将軍に分かれている。お面は固定されており、たとえば『三国志演義』の関羽は、赤いくまどりの儒将軍(学者のような風格のある将軍)、張飛は黒いくまどりの猛将軍……などである。

 一つの芝居で使われるお面は少なくても十数、多ければ数十にものぼる。地戯の兵器はわりと短く、関羽の大刀であれ、張飛の蛇矛(先がヘビの形をした矛)であれ、呂布の戟(戈と矛を組み合わせたもの)であれ、いずれも短い。また、飛んだり跳ねたり、打ちあいをしたり、とんぼ返りをしたりするなど、立ち回りが多い。しかし、京劇のように決められた型はなく、演技からセリフ、歌にいたるまで、すべて師匠のものから受け継がれている。

 安順地区には、三百あまりもの地戯団がある。地戯はむかし「跳神」と呼ばれていた。村人の厄よけと幸せのため、春節(旧正月)のころに行ったものを「玩新春」、旧暦の7月中旬、稲の開花時期に豊作を祝い、防災を願ったものを「跳米花神」とそれぞれ呼んだ。行商人が商いに出かけるときも劇団を招き、繁盛を願う「開財門」を演じてもらった。

貴州省安平(現在の平ハ県)付近の「鳳頭」ミャオ族(『伊東中太見聞実録(清国)2』より、伊東中太氏の絵)

 地戯の上演には、「開財門」「掃開場」「跳神」「掃収場」の四部があった。「跳神」という劇中物語のほか、残りの三部は古代の儺祭りにおいて、神様を迎え、幸せをおさめ、疫病をはらい、村の安寧と豊作を願ったものだ。ポプラの木を彫刻したお面は、祈祷師による開眼儀式を経ると、神力がそなわるという。毎年、箱からお面をとりだすときは、ブタの頭とオンドリを使って祭祀を行い、災害と疫病をはらう。お面は上演が終わると、祭祀をしたあと白紙で包み、箱に収める。

 研究によると、儺はもともと原始的なシャーマニズムの活動だった。ルーツは今から三千年前の商・周時代で、中原の地に広く流布した。『論語』には、孔子が官服をまとい、石段の上に立ち、民間の儺劇団を迎えている情景が描かれている。

 儺は、「民間儺」「宮廷儺」「軍儺」「寺院儺」の四つに分類される。むかし、軍隊が出征するとき、おそろしいお面をかぶった役者が、戦争の場面を演じた。それによって士気を高め、敵をおどした。これが軍儺である。明代の皇帝は、軍隊の貴州派遣に軍儺をともにつかわした。それが発展して、現在の安順地戯になったのである。