中国の封建時代の皇帝は、いずれも「厚葬以明孝」(葬を厚くして、孝を明らかにす)と唱えた。彼らは、国家の財力や物資を惜しみなくつかい、広大な規模の陵墓をみずからつくった。明・清時代の皇帝陵である明の顕陵(湖北省)、清の東陵(河北省)、西陵(河北省)は、そうした陵墓の代表である。3カ所の陵墓は2000年12月、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。
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神道の両側にならぶ皇帝権力を象徴する「望柱」と十二対の「石像生 |
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神道の傍らにならぶ武将の石像
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神道の傍らにならぶ文臣の石像 |
中国の封建時代の皇帝は、いずれも「厚葬以明孝」(葬を厚くして、孝を明らかにす)と唱えた。彼らは、国家の財力や物資を惜しみなくつかい、広大な規模の陵墓をみずからつくった。明・清時代の皇帝陵である明の顕陵(湖北省)、清の東陵(河北省)、西陵(河北省)は、そうした陵墓の代表である。3カ所の陵墓は2000年12月、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。
湖北省鍾祥市の東北、純徳山におかれた明の顕陵は、中国のもっとも特殊な皇帝陵だ。墓の主人が一日とて皇帝になったことがなく、さらに陵墓建造のために、惨烈な「大礼儀」事件が引き起こされたからである。
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隆恩殿の遺跡。明代末期、李自成の農民蜂起軍が焼き払った跡が、今もうかがえる |
明の顕陵は、嘉靖皇帝の父母の合葬墓である。明の正徳14年(1519年)に創建され、嘉靖38年(1559年)に完成、40年の歳月をかけてつくられたものだ。正徳16年(1521年)、後継ぎのない明の武宗・朱厚照が亡くなった。その弟である朱厚ソウ、明の太祖・朱元璋の「兄終弟及」(兄が死に、権力を弟にゆずる)の遺訓を根拠に、帝位についた。朱厚 とは、すなわち、明の世宗(嘉靖皇帝)のことである。
封建社会の決まりによれば、朱厚ソウはその伯父、孝宗皇帝・朱祐ドウの後を継ぐはずであった。しかし、嘉靖皇帝は即位後、皇位継承系統を独立させるために、臣下の反対をかえりみず、すでに故人である父、興献王・朱祐ゲンを「皇帝」とする尊号を贈ろうとした。
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神道にあるレイ星門 |
その後、朝議がなんども開かれ、依然として臣下の強い反対にあった嘉靖皇帝は怒りを表し、近衛軍をつかって、反対した大臣134人を投獄、16人が杖の刑罰で死亡した。また、俸禄を没収され、国境守備に左遷された役人を合わせると、処分や刑罰を受けた者は全部で580人に上った。さらに嘉靖皇帝は「大礼」をさだめ、明の孝宗皇帝を「皇伯考」と称し、父には「恭叡献皇帝」の尊号を贈った。母にも「昭聖皇太后」の称号が贈られた。このときから、正統な皇位継承に「異変」が起こった。明代史上にのこる「大礼儀」事件である。
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叡功聖徳碑楼の上部はすでに崩壊していた。碑もどこへいったかわからない。碑の台座と崩れ落ちた碑楼の上部 |
朱祐ゲンに「皇帝」の尊号が与えられた後、その陵墓も嘉靖2年(1523年)に、皇帝陵の規格にてらして、改築・拡充工事がおこなわれた。陵墓の名前は「顕陵」とされた。その陵墓の建物上部の黒いかわら屋根は、皇帝専用の黄色い瑠璃がわらに取り変えられた。また「神道」や橋が設けられたほか、その後も徐々に「明楼」「叡功聖徳碑楼」「大紅門」「望柱」などの建物が増築された。
顕陵の拡充のさいに、もう一つのエピソードがある。嘉靖皇帝は父に「皇帝」の尊号を贈った後、北京城の北にある大峪山(今の北京市昌平区十三陵)に「顕陵」を再建し、父の棺を、鍾祥から北京へ移したいと希望した。しかし、それも臣下の反対にあい、嘉靖皇帝は政局の混乱をおそれて、母である昭聖皇太后蒋氏の教えをこうた。蒋氏は、「皇帝の墓は、国の根本である重要な場所である。軽々しく動かしてはならない」とそれをいさめた。嘉靖皇帝は仕方なく、とりやめにした。
のちに、この北京の顕陵は、嘉靖皇帝の三男である明の穆宗・隆慶皇帝が埋葬されて、陵墓の名前も「昭陵」と改められた。
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隆恩門の内両側にある双竜瑠璃照壁
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隆恩殿の漢白玉の雲竜丹陛 |
隆恩門の外両側にある瓊華瑠璃照壁 |
顕陵には、ほかの皇帝陵と異なるところが数多くある。陵墓は、長さ3438メートルの城壁がとりかこんでいる。城壁の南側にある大紅門は、二重の陵門であり、その壁の色が赤褐色であることから、それぞれ「新紅門」「旧紅門」と呼ばれているほか、「双紅門」と総称される。
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明楼の上からは、隆恩殿、隆恩門の全貌が見渡せるばかりか、九曲御河の二つの橋の間にある竜形神道が、ハッキリと見える |
大紅門の前には、円形の貯水池「外明塘」があり、敷地にある「隆恩門」前の「内明塘」と対称をなしている。二つの池は、敷地内をくねくねと流れる人工水路の「九曲御河」でつながっており、一種独特の水系をつくり上げている。
崩れ落ちた「叡功聖徳碑楼」を過ぎると、直線コースの「神道」が「顋星門」へと通じている。神道の両側には、皇帝権力を象徴する「望柱」と十二対の「石像生」が配されている。おもしろいのは、顋星門を過ぎると、まっすぐだった神道が曲がりくねった道へと変わる。これが、顕陵特有の「竜形神道」であり、嘉靖皇帝がみずから確立した「昭穆(古代の宗廟)体系の思想」を体現したものである。
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塋城の明楼 |
明楼の上に立つ「恭叡献皇帝之陵」碑 |
「明楼」と「宝頂」(墳丘)の前にある「隆恩門」「隆恩殿(享殿)」などの地上建築はもともと木造であったが、李自成の農民蜂起軍が焼き払い、今では廃墟となってしまった。清代以降は、地方役人の管理のもと、手厚い保護をうけて現在のような姿になった。現存する漢白玉の欄干の上には、焼け焦げた跡が今にのこる。しかし、隆恩門の内外両側にのこる照壁(目隠しの塀)には、瑠璃でつくられた「双竜」や「瓊華」という伝説上の花の美しいデザインが施されており、ほぼ完全な姿でのこされている。
隆恩殿の後ろ側は、陵墓をとりかこむ「塋城」である。ほかの皇帝陵と違うのは、顕陵の塋城は「鉄アレイ」のように、前後二つの宝頂で形づくられていること。
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二つの宝頂の前後におかれた瑠璃照壁は、惜しいことに崩れ落ちていた |
明楼をかこむ城壁には、精緻な彫刻の「散水竜頭」(竜頭の形をした排水口)が99、しつらえられている。竜頭はそれぞれ、遠方の山と相対しているという |
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嘉靖17年(1538年)12月、嘉靖皇帝の母である蒋氏は、北京において病死した。当時、朝廷の奸臣であった厳嵩は、嘉靖皇帝のきげんをとろうと、「先帝の棺を北京へ移し、皇太后と合葬しましょう」と上奏した。それは、嘉靖皇帝の望むところであったが、依然として臣下たちの激しい反対にあった。考えあぐねた嘉靖皇帝だったが、結局は、みずから南方の鍾祥に赴き、顕陵を祭ることをとり決めた。
翌年3月、嘉靖皇帝は鍾祥で、盛大な祭祀をとりおこなった。その後、彼は目にした鍾祥の環境が北京の大峪山にもまさると思い、父の棺は移さず、父母を合葬する塋城を新たに建てることを決定した。
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前後二つの塋城をつなぐ「瑶台 |
新塋城は、もとの塋城の後ろ側に位置する。両塋城は、長さ40・5メートル、幅11・5メートルの「瑶台」と呼ばれる大きなレンガづくりの平台でつながっている。
三カ月後、蒋氏の棺が鍾祥に運ばれ、とりだされた朱祐 の棺とともに、新塋城に合葬された。そのため、前方の旧塋城は、空となった。この「一陵両寝」(一つの陵に二つの墓)というつくりは、歴代の皇帝陵の中では、まれに見る珍しいものである。
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