大暦3年(768)正月半ば、杜甫はル迴Bを出発して三峡を下ります。やがて江陵(湖北省荊州市)にたどり着きますが、此処での生活もうまく行きません。
故郷に帰ろうとしても叶わず、病が進んで足も耳も不自由になっていたようです。そんな絶望の中で生きるために旅を続けていたと思われるのです。
更に南の公安(湖北省公安県)を通過して岳州(湖南省岳陽市)に向かいます。すでに杜甫は57歳になっていました。岳州は天下に名の知られた岳陽楼で有名な場所で、杜甫もこの楼閣に上ります。
この時の「登岳陽楼」の詩こそ杜甫晩年の絶唱と言えるべきもので、読む人の魂を揺するものです。
登岳陽楼 杜 甫
昔聞洞庭水、今上岳陽楼。
昔聞く洞庭の水、今上る岳陽楼。
呉楚東南圻、乾坤日夜浮。
呉楚東南に圻け、乾坤日夜浮ぶ。
親朋無一字、老病有孤舟。
親朋一字無く、老病孤舟有り。
戎馬関山北、憑軒涕泗流。
戎馬関山の北、軒に憑りて涕泗流る。
【通釈】
以前から聞いていた、洞庭湖、今、上っている、岳陽楼。
呉と楚は東南の位置で洞庭湖により割かれ、天地の全てが、昼となく夜となく湖に浮かぶ。
肉親や友人からの便りもなく、老いて病がちの身には、一艘の舟があるだけ。
国境の北では、戦乱が続き、岳陽楼の手すりにもたれかかって、止めどなく涙が流れる。
私は岳陽楼に二度上りました。病につかれた杜甫が足を引きずりながら岳陽楼の階段を一段一段上る姿が目に浮かびます。
きっと杜甫が上ったときは、夕日が岳陽楼の向かいに見える君山の左側に落ちかけていたと思うのです。そんな景色がこの詩には似つかわしいのです。雄大な洞庭湖の景色の中に、杜甫の人生はやがて終焉を迎えようとしているのです。そのような思いの中で、洞庭湖を見ていたに違いありません。
「親朋無一字、老病有孤舟」
たとえようもない孤独感が杜甫を包みます。眼前に広がる大自然と孤独、その対比は、中国の山河を流浪した杜甫がたどり着いた人生だったのかもしれません。
そして、故郷を思って涙を流すのです。「涕泗流」は涙と鼻水です。止めどなく流れ落ちる涙と鼻水を杜甫はぬぐおうともしなかったと思います。この涙は、杜甫にとって特別のものだったと思うのです。
此処では「涙襟に満たしむ」とは言っていません。涙が満ちるだけでは足りなかったのでしょうか。杜甫の詩の中には涙という意味の詩語が非常に多いのです。しかし、この涙はこれまでの涙ではないような気がします。憔悴しきった杜甫には涙と感じることもなく無常観の中に軒に依って呆然と洞庭湖の彼方に故郷を思って眼を注いでいるのではないでしょうか。
何という人の姿でしょうか。
あの大望を持った若き日の杜甫を知るものにとって、岳陽楼上の杜甫は幻かもしれません。私は、そんな杜甫を慕って岳陽楼に上ります。そして、洞庭湖を望み首を廻らして西北の空を望んで「登岳陽楼」の詩を口ずさむと千年の時空を越えて涙があふれてきます。
きっと思いも寄らぬ大きな夕陽を前にしているからかもしれません。
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