【上海スクランブル】


歴史的人物たちを満足させた伝説のシェフ
         
                    須藤美華

 

錦江飯店・貴賓楼8階に
ある「VIP倶楽部」

 上海の中心も中心。淮海中路と茂名南路の交差点から、北に百メートルほど行ったところに、上海っ子から「老錦江」の愛称で親しまれる錦江飯店がある。その貴賓楼の八階には、「VIP倶楽部」の名にふさわしい静かで重厚な雰囲気が漂っていた。  そこに、名人と言われる伝説のシェフがいると聞いて、出かけた。

        数々の内外の要人をもてなす

室内には多くの首脳をもてなしてきたであろう風格がかんじられる。

  上海の右肩上がりの経済成長に伴って、香港の有名レストランで活躍した経験を持つシェフたちが上海で腕をふるようになっている。彼らによって広東料理の水準は確実に上がっているが、大陸には大陸にしか存在し得ない名シェフがいるのだ。

 東林発さん、66歳。毛沢東の元料理番である。四年前まで錦江飯店総料理長を務め、現在も顧問として後進の指導にあたる。細身で中背、穏やかな眼差しの、好々爺然とした姿からは、歴史を動かした人物を胃袋の面から支えてきたとは想像もできない。

 錦江飯店は1950年に開業、最近でこそ外資系ホテル勢に押され気味だが、上海を代表する最高級ホテルとして、ロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、田中角栄など、数々の各国の元首や中国の指導者たちをもてなしてきた。

 東さんは創業直後から、縁があって同飯店の厨房で働いてきた。運命の日が訪れたのは、1960年。国家級の中央会議がホテルで開かれ、指導者たちの晩餐を担当した東さんは翌日、「旅の支度をするように」と申し付けられる。何か失敗があったのだろうか――、弱冠23歳の東さんは北京行きの列車に揺られながら、不安を感じていた。

 そして、連れて行かれた先は、劉少奇の自宅。食糧不足の時代にあって、工夫に工夫を重ねた東さんの料理は北京の要人たちの間で評判となり、三カ月後には毛沢東の自宅で腕をふるうことになる。

             毛沢東の「紅焼肉」当時のままに散

毛沢東が食したころと変わらない「紅焼肉」

  昼は午後3時、夜は深夜3時。1日2回の毛沢東の食事を作った。

 「リーダーというのはシンプルな食事を好むものですよ。量もあまりたくさんは召し上がらなかった」と、東さん。毛沢東は家庭料理を好んで食べたという。

 「好物ねぇ、焼き芋がお好きでしたよ。焼いたとうもろこしなども。緑豆のおかゆもよく食べられていましたね。そうそう、『紅焼肉』も、一カ月に一、二度はお出ししました」

 そう言って出してくれた紅焼肉は、毛沢東の料理番だった当時と同じレシピで作られているという。紅焼肉は醤油煮込みのお肉、つまりは豚の角煮。上海の代表的な家庭料理だが、ここでは濃厚ながらも、程よい甘さの柔らかい肉が口の中でふわっと溶ける上品なお味だ。家庭料理ならではの温かさと甘さで、毛沢東は多忙な日々の疲れを癒していたのだろうか。

 毛沢東のもとで約五年仕えた東さんはその後、上海の錦江飯店に戻る。アフリカの大使館やサンフランシスコ錦江飯店への駐在以外は、ずっと上海の同飯店で内外のVIPをもてなす料理を作り続けてきた。

 「ここでフカヒレを食べたら、(上海で)ほかでは食べられない、とおっしゃってくれるお客さまもいます」

 ここVIP倶楽部では、そう絶賛されるほどのおいしさを誇る広東料理のほか、宮廷料理など中華料理の髄が供される。

 部屋を見渡せば、ひとつの瑪瑙でできたアンティークの電灯など、趣味の良い家具が配置され、いくつもない椅子とテーブル。多くの内外首脳をもてなしてきたであろう風格がそこここに感じられる。最近まで一般には公開されてこなかったため、上海っ子でもその存在を知る人はほとんどいないとか。予算は一人800元(1元は約15円)ほどを見るといい。

 世界のVIPを数々の料理でもてなしてきた東さん。彼が今、腕をふるうことはないと言うが、真っ白な厨房服に包まれた姿には、料理人としての深い矜持を感じた。内外の要人が舌鼓を打ってきた秘伝のレシピと、彼の矜持は日々の皿に再現されている。