『人民中国』創刊50周年記念シンポジウム「日本の中の中国」
魂の触れ合う文化交流の発展を

 
東京で聞かれた『人民中国』50周年記念シンポジウムに、各界の人々が集まった

 7月12日、東京・飯田橋の日中友好会館で、祝日中平和友好条約締結25周年『人民中国』創刊50周年記念シンポジウム「日本の中の中国」が開催された(主催・日本中国友好協会、東方書店などシンポジウム実行委員会)。

 シンポジウムは北京で収録されたビデオによる本誌・沈文玉社長の挨拶、中国対外文化交流協会・劉徳有常務副会長の特別報告から始まったが、これは新型肺炎SARSの影響により代表団の訪日が断念されたことによる。基調報告が終わると、本誌・張哲東京支局長も加わり、取り上げられた4人の人物に焦点を当て日本と中国の文化的相互影響について活発な意見交換がなされた。最後に、張支局長より「実践を通して多くの読者の意見に耳を傾け、魅力的で実用的な雑誌にしていきたい」と今後へ向けた抱負が語られ、会場いっぱいを埋めた300人の参加者による拍手をもってシンポジウムは盛況のうちに幕を閉じた。

ビデオを通じ挨拶した
沈文玉社長

 シンポジウム終了後に行われた祝賀会は、中国大使館の趙宝智文化参事官、中国対外出版グループの蔡名照総裁(中国国際図書貿易総公司東京連絡事務所の張亮所長代読)より祝辞をいただき、財団法人日中友好会館の村上立躬理事長による乾杯の音頭で始められ、日中友好議員連盟会長の林義郎衆議院議員、社団法人農山漁村文化協会の坂本尚専務理事。 ら百人に近い参加者が集った。以下、各報告内容をご紹介する(編集部)

 

【特別報告】 
心と心の触れ合いを――文化比較の視点から

中国対外文化交流協会常務副会長、元文化部副部長・劉徳有氏

劉徳有氏がビデオを通
して特別報告を行った

 これからの中日関係は、ムードづくりに留まってはならず、魂の触れ合いでなければならないと考えます。相手の国の歴史、政治、経済、国際関係などを理解することが大事なのはもちろん、それにもまして重要なのは、相手の国の広い意味での文化――ものの考え方、行動を起こす際の思考パターン、これを生み出す文化的根源などを理解することです。

 中日両国は文化の面で多くの共通点をもっていますが、同時に「相違」も存在していることを率直に認めるべきではないでしょうか。中国語の題名で『那山、那人、那狗』(あの山、あの人、あの犬)という映画があります。日本で上映されるとき、題名は『山の郵便配達』に変えられました。もし原題のままでしたら、日本の観客にはチンプンカンプンだったに違いありません。

 中国と日本の文化には相違がありますが、同時に相通じるものがあることも事実です。これがまた両国人民の相互理解の増進を大いに可能にしているのです。日本の伝統的文芸や俳句・茶道においては「もののあはれ」「わび」「さび」が貴ばれているそうです。思うに、これらは確かに日本的ですが、日本独自のものであって中国とは無縁であると言い切れるかと申しますと、必ずしもそうではないようです。本居宣長によれば、『源氏物語』は「もののあはれ」を集中的にあらわした古典文学であるということですが、この『源氏物語』は「もののあはれ」をあらわすのに白楽天の詩などをふんだんに使っています。漢詩にも「もののあはれ」に通じる何かがあるからこそ、紫式部は頻繁に引用したのだと思います。

 明治の文豪、夏目漱石も、好んで俳句に漢詩文や中国の故事を取り入れていたようです。「春寒し墓に懸けたる季子の剣」――ここでは『史記』『蒙求』を出典とする「掛剣」の故事が使われていますが、この句を読んで、私は一九五五年、郭沫若氏のひきいる中国科学代表団に随行して訪日したときのことを思い出しました。郭先生は岩波書店の創立者、岩波茂雄氏のお墓に詣でたとき七言絶句を書きましたが、漱石と同じように、この故事を引用しています。これは一般に知られざる中日交流史の貴重な一ページであると思います。

 各国間の文化交流と協力がいっそう切実なものとなっているのは、異なる文化の交流が民族間のへだたりと偏見をなくし、国家間の政治、経済関係の発展を促すのに役立つからです。日本を含めた世界各国と大いに文化交流を発展させることを私たちが主張する理由もここにあります。今日、中日両国はいついかなる時よりも魂の触れ合いである文化交流を重視する必要があると思います。

【冒頭報告】 日本の中の中国   

東洋大学教授・
丹藤佳紀氏

 二千年にわたる日中交流は、隋・唐時代の文化的思想的な先進国である中国と後進国日本、立松さんが報告される道元の時代になると先進国中国と発展途上国日本、政治的経済的な関係が文化的な関係を上回るようになった明治維新以降――半植民地化された老大国中国と西欧化にこぎつけた新興国日本と、大きく三つの時代に分けられます。日清戦争を境に日本の対中認識あるいは姿勢に歪みが生じ、ついに日中戦争に至ってしまいますが、その過程にあっても中国に対する日本の側からの畏敬の念あるいは尊重の気持ちは絶えることがなかったことは、毛さんの倉田百三、王さんの宮沢賢治についての報告からもうかがえるのではないかと期待します。


 旧敵国である日本の読者を対象にした『人民中国』が、建国後まもない中国で出されたということ、それが五十年続いたという事実は世界でも例を見ないことです。この半世紀の間に日中双方で世代交替が進み、中国社会は大きく変化しましたが、文化交流の妨げとなっていたさまざまな障害も以前よりは少なくなってきています。藤井さんが報告される中国における村上現象も、そうした変化がもたらしたものだと思います。

【基調報告】  村上春樹の中の中国           

東京大学教授・
藤井省三氏

 村上は『ノルウェイの森』でベストセラー作家としての地位を築きますが、まず一九八九年に台湾で翻訳出版され、二年ほど遅れて香港版で、さらに前後して中国でも訳されます。改革開放の高度経済成長期の物質的に恵まれた環境で育ち、しかも政治的にも安定した中国を生きてきた若い世代はほとんど、村上の影響を受けていると言っていいでしょう。

 村上が最初に中国に触れるのは「中国行きのスロウボート」です。次は『羊をめぐる冒険』――これはまさに戦前の「満州国」という問題が今の日本にどう影響しているのかということが取り上げられています。おそらく戦後日本文学に登場する中国人は、常に差別されたり排斥されたり、あるいは偉大な国家の人であるというかたちで尊敬されたりする人物で、中国も革命をした立派な国、あるいは恐い国というように常に何らかの価値観をもってしか登場してきませんでした。この小説中のジェイは普通の人として出てきた最初の中国人であろうと、長堀祐造教授が指摘しています。その後、『ねじまき鳥クロニクル』で村上自身もこう書いています――「すべては輪のように繋がり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、……」。また九八年には「中国は僕にとって実在するものではありませんが、しかしとても大事な記号なのです」と語っています。

【基調報告】  倉田百三の中の中国

作家・毛丹青氏

 今から十五、六年前に日本に初めて来て、高田本山で親鸞上人の顔を見たとき、中国では拝むのは常にニコニコしている顔なのに、まるで鬼のような顔を皆が真剣に拝んでいるのが不思議でした。それがきっかけとなり『歎異抄』に吸い込まれ、中国語に訳しました。その延長に、親鸞上人を主人公にした戯曲『出家とその弟子』を書いた倉田を知り、また驚きました。中国人の考え方としては、僧侶と芸者との間に恋があり、人生論があるということが不思議でしょうがなかったのです。これも中国語に訳しました。『出家とその弟子』には、この世とあの世の間は往き来できる、人は死んだら皆仏様になるという日本独特の考え方があります。これを理論的に言おうと思うと非常に難しいのですが、文学作品として理解すると、わかってくる気がします。


 倉田は中国の影響を受けて『出家とその弟子』を書いたわけではありません。中国と日本では仏教に対する考え方があまりにも違いすぎ、おそらく中国の影響を受けたら『出家とその弟子』を書くことはできなかったでしょう。『歎異抄』『出家とその弟子』とのかかわりを通じ、今日のテーマを、違う角度から解説あるいは説明することができるのではないだろうかと考え、お話ししました。

【基調報告】  宮沢賢治の中の中国――賢治と『西遊記』

法政大学教授・
王敏氏

 旧制高校を卒業した賢治は、出家しようと上京したとき、文学によって仏教の教えを広める道を奨められます。以来、仏教文学創作の人生に向かいますが、そのモデルとして『西遊記』を読んだと思われます。人生の道連れとして『西遊記』を選び、パワーを得ていたのだと思います。海外旅行がほとんど不可能な時代、病弱だった賢治にもそれはかなわぬ夢でしたが、心の中でいつも西域への模擬旅行をしていたのでしょう。


 賢治の作品の中には、悟空と関係のある、あるいはヒントを得たと思われる描写がふんだんに使われています。悟空へのこだわりは、おそらく鏡で自分を見つめるような印象があったからではないでしょうか。長男でありながら家業を継がずに家出してしまう、家の宗派の浄土真宗を捨てて日蓮宗に宗派替えをする、父親と対立し喧嘩ばかりする、農学校の教師を辞めて農民になる。当時の価値観から見れば、どれをとっても変わり者に思われたに違いありません。このような変わり者ぶりは悟空の性格とそっくりです。悟空は天上界で大暴れをして五行山の下に押さえ付けられました。玄奘に従ううちに浄化され、模範猿に変わっていきました。この変移というものが賢治にとって人生へのヒントとなり、仏教文学を創作していきたいという意志となったと思われます。

【基調報告】  道元の中の中国

作家・立松和平氏

 道元は、当時の中国そのものの気風、禅の気風を日本に伝えた人です。「日本の中の中国」という言い方は間違いありませんが、同時にもっと広い国境を越えていくような出来事だったのではないかと僕は考えています。

 道元は、ある思いがあって出家しました。そして叡山で修行します。しかし道元は、どうしてこんなに苦しい修行をして人格を完成せねばならないのかと疑問に思ったと言われています。その悩みを解くためにいろんな人を訪ねるが、誰も答えてくれない。探求すればするほど、日本に正師はいないということになってしまう。そして仏教の日本にとっての母である中国に渡りたいと切望するわけです。中国で、道元はついに正師に巡りあいます。如浄という人物です。如浄に出会ったということが本当に大きい。「いつでも平服でも和尚様の部屋に行って質問したい」と道元はわがままな手紙を書きますが、「私は君を父親が子どもの無礼を許すように迎えるでしょう」と如浄は応えました。これは、日本と中国の今まで数々の交通の歴史の中で、最も美しい関係の一つではないかと僕は思います。この一箇半箇の出会いが今日の我々にまことに大きな影響を及ぼしている、生活習慣の中の隅々にまで禅というのが残っているわけですけれども、そういう二人の出会い、我々の先人たちの魂の出会いについて短くお話しさせていただきました。

創刊50周年を、多くの読者の方々とともに祝うことができました。関係各位の皆様に、厚く御礼申し上げます。――編集部