大暦4年(769)正月、岳州(湖南省岳陽市)を出発して湘江を南にさかのぼりました。屈原が身を投げた汨羅を越え潭州(湖南省長沙市)に行き、更に衡州(湖南省衡陽市)に行きます。
知人を訪ねたのですが行き違いになり、また潭州に戻ります。当時の杜甫の窮迫ぶりはすさまじいものがあったようです。そんな中で、大暦5年(770)の春の暮れに歌手として名を馳せた李亀年に出会うのです。
江南にて李亀年に逢う 杜 甫
岐王宅裏尋常見、
岐王の宅裏尋常に見、
崔九堂前幾度聞。
崔九の堂前幾度か聞く。
正是江南好風景、
正に是れ江南の好風景、
落花時節又逢君。
落花の時節又君に逢う。
【通釈】
岐王(睿宗の第四子、玄宗の弟)の邸宅ではいつもお目にかかっていましたし、崔九(崔家の9番目の男子、殿中監崔滌)の表座敷でも、何度か貴方の歌を聴いたことがあります。
今まさに江南のすばらしい風景の中、花の散る季節に、再び貴方に出会うことが出来ました。
李亀年と杜甫は特に親しいという友人ではなかったと思うのです。しかし、互いにその名は知っていたでしょうし、40年以上も会うことのなかった人に出会い、互いに年をとって都を遠く離れた地で出会ったことがこの詩を生んだと思います。
この時、李亀年が歌った歌は王維の『相思』「紅豆南国に生ず、秋来幾枝発く。君に勧む多く採ケツせよ、此の物最も相思う」と『伊州歌』「清風明月相思うに苦しむ、蕩子戎に従う十載余。征人去る日慇懃に囑し、帰雁来たる時
数 書を附せよと」の二首であったということです。
この時、杜甫の懐かしさは、ただ李亀年と再会しただけだとは思われないのです。何故ならこの詩は、杜甫の晩年の境遇からすれば淡々と詠っているように思えます。杜甫の詩の構成から考えるとこの絶句の前にもう四句あったように思えるのです。
それは何だったか知ることは出来ません。
しかし、私は、杜甫の人生を振り返る時、絶望の淵にあっても人民を憂い人民を愛する気持ちの中に、唐王朝の繁栄で善政を望むこと切なるものがあったからだと思うのです。
そのように考えると、長安の繁栄が詳細に描かれているような気がするのです。若き日に長安で聴いた李亀年の歌は、そのまま杜甫にとって唐王朝の繁栄であったのではないでしょうか。そんな時代を経験した二人が都を遠く離れた江南の地に流落の身で出会うのは、病に冒され死を間近にした杜甫にとって耐え難いものだったに違いありません。
「落花の時節又君に逢う」とはそんな心境を詠んでいるようです。「落花の時節」は暮春の時期と人生の秋をいっているのです。私には、杜甫がほとんど忘れていた長安の日々が李亀年の歌によって甦ったような気がするのです。
この時期の杜甫の心境を考えることは、杜甫の人生を振り返ることかもしれません。黄河流域の乾いた土地を故郷とする杜甫にとって江南の緑豊かな景色は時に心の安らぎであり、また、都や故郷を遠く離れてしまったことへの絶望であったかもしれません。年を取れば取るほど杜甫の胸中は故郷や長安を思い、若き日の志の挫折にため息をついていたのだと思います。
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