1987年の夏が終わったころだった。わたしはニューヨークはマンハッタンの下町にある、古びたアパートに住みながら、週に一度コロンビア大学で日本映画の講義をするという生活を送っていた。同じ階にはジャカルタ生れの現代音楽の作曲家がいて、なんでもジャワの古い王族の裔で、皇位継承権をもっているという。わたしたちは同じ国際的な基金の奨学金を受けていたから、自動的に同じアパートに部屋をあてがわれていた。わたしと殿下はほとんど毎日を、議論しながらすごした。
彼が新しい留学先であるウィスコンシンに留学するというのでその部屋が空き、そこに中国から若い映画監督が入ってきた。陳凱歌だった。彼もまたわたしと同じ奨学金を受けて、ニューヨーク大学の客員研究員としてやってきたのだ。それはわれわれにとって、ガルシア・マルケスのいう「幸福な無名時代」の始まりだった。
わたしはすでに『黄土地(黄色い大地)』を、その前年に東京で観ていた。それがこれまでの中国映画のどれとも異なった種類のフィルムであることはただちに了解できたが、いわゆる「第五世代」の全体像を把握するにはあまりにも材料がなさすぎた。大方の日本の映画評論家は、テレビでは見られない珍しい結婚式の光景が見られるからといって褒める程度であった。
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わたしといえば、陳凱歌が挫折する主人公を描いたことに深い関心をもった。そして彼が政治や啓蒙といった人間中心主義の卑小を離れ、直接に宇宙四大元素をめぐる象徴法に手を伸ばそうとする強い意志をもっていることを直感した。男たちは水の不足を嘆き、少女は水の流れに身を委ねる。のちになってわたしは、彼が絶学無憂の老荘思想に強い親近感をもっていたことを、『孩子王(子供たちの王様)』の末尾を観たときに確信した。
わたしが手にした台湾の映画雑誌『四百撃』には、にこやかに笑っている監督の顔写真が映っていた。けれどもニューヨークでわたしの目の前に現われた陳凱歌は、背がおそろしく高く、長い顎鬚を堂々と垂らしていた。なんだい、王子様の次は京劇の鍾馗様かい。それがわたしの抱いた、最初の素朴な感想だった。
だが、彼は一見威風堂々としているようにも見えて、話してみるときわめて繊細な感受性をもった人間だった。わたしにはすぐにそれが、ある共感とともにわかった。彼は北京を出るにあたって、親しい女友だちと別れたことや、『大閲兵』の撮影をめぐって想像を絶する苦労をした話を、ひどく拙い英語で話した。
この男はわたしと同じ年であるにもかかわらず、わたしの知らないはるかに多くの苦しみと悲しみを背負っているのだと、わたしは思った。ニューヨークに到着したばかりの彼は、故国で受けた傷の深さから、まだ充分に快復していなかったのである。と同時にわたしは、彼が慎重に言葉を選んで話すことを学んだ人間だ、という印象をもった。
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あるとき、わたしのところにベルトルッチの『ラスト・エンペラー』の試写状が舞い込んだ。陳凱歌を誘ってみると、自分のところにも試写状が来たばかりだという。二人で連れ立ってミドルタウンの映画会社の試写室に出かけていった。イタリア人が撮った、異国趣味とノスタルジアの混ざり合ったこのフィルムのなかで、陳凱歌は幼帝溥儀を守護する近衛隊長の役を演じていた。なんだ、きみは役者だったのかい。わたしが暗闇のなかでいうと、彼はニヤニヤとしていた。
それから数日が経過して、リトル・イタリーのイタリア料理店で『ラスト・エンペラー』の完成を祝うパーティーが開かれた。わたしと陳凱歌は、ジョン・ローンのリムジンに乗って駆け付け、ベルトルッチやジム・ジャームッシュらと卓を囲んだ。ベルトルッチはひどく上機嫌だった。溥儀の弟である溥傑に北京で会ったときのことを、ジェスチャーを交えて面白おかしく話したり、中国人から「もう何年北京に住んでいるのですか」と尋ねられたよと、少し得意げに語った。
ただジョン・ローンとだけは、なぜか一言も口をきかなかった。察するに、どうやら撮影中に深刻な喧嘩をしてしまったらしい。溥儀を演じたこの美顔の俳優が席を立って化粧室に行くと、ベルトルッチはすかさず陳凱歌にむかっていった。「きみこそが本当のラスト・エンペラーだよ!」 陳凱歌は何もいわず、微笑していた。
酔っ払ったジャームッシュが、今から別のパーティーがあるのだけど、もしよかったらいっしょに来ないかと、わたしたちを誘った。わたしは行くことに決めた。陳凱歌はアパートに一人で帰ると主張した。「午前一時に北京から大事な電話がかかってくる。だから帰っていなければいけないんだ」
「ねえ、チェン、きみはどう思う?」 わたしは尋ねた。「人間は新しい場所に移っても、結局、前と同じ場所にいると感じるものだろうか?」
「そんなことは絶対にない。自分のいる場所を変えれば、新しいことが始められるはずだ。西安の撮影所はまだましだが、北京は官僚的で、どうしようもない。ニューヨークでぼくは新しいことができるだろう」
「じゃあ、きみはずっとアメリカに住むつもりなのかい?」
「かならず中国に帰る。中国はともかくとてつもなく広大だ。撮影したい場所がいっぱいある」
彼はそれだけいうと、浮かれ騒ぐ他の人々を無視して、ひとりで暗い街角をアパートにむかって帰っていった。当時のニューヨークはまだ充分に治安の悪いところだったが、彼にはそうしたことに憶するところがいささかもなかった。
翌年、わたしは新しい仕事が見つかり、東京に帰ることになった。出発の二日前、わたしはニューヨークで知り合った人たちをパーティーに呼び、このアパートにあるものはひとつ一ドルで何でももっていっていいよと、呼びかけた。
30人くらいがやってきた。陳凱歌は最初にやってきて、しばらく考えたのち、台所にあった中国の包丁をじっと見つめ、「じゃあ、これをくれ」といった。わたしが何回か彼に料理を作って出したときに用いた包丁だった。
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東京に戻ったわたしには、多忙な日々が待っていた。陳凱歌はその後もずっとニューヨークに滞在していて、ときおり旧作が日本で公開されることになると、配給会社に呼ばれて東京にやってきた。記者会見の連続で多忙な日程であったと想像するが、それでも時間を作って、わたしの住む下町に遊びに来てくれた。もはや長い髭はさっぱりと切り落とし、髪は短く刈り込んでいた。いかにも連続インタビューの現場から戻ってきたという印象で、少し疲れているようだったが、眼には悪戯っぽい光が相変わらず宿っていた。
あるとき彼はわたしの家で日本酒をうまそうに呑んだ。やがて夜が更け、その場にいあわせた者たちが記念に一筆ずつ芳名帳に何かを書こうということになった。ふざけた俳句を書く者もいたし、酔って自分の似顔絵を描く者もいた。陳凱歌はひと呼吸してから筆を取ると、「紅衛兵世世代代熱愛毛主席!」と書いた。みごとな筆跡で、周囲にいた者たちは一瞬沈黙した。そうだった、彼は日本でいう戦中派なのだと、わたしは改めてその経歴を思い出した。
このときの体験はわたしに、何人かの元紅衛兵たちの自伝を比較して評論し、あわせて自分の高校時代の政治的体験について書くことの契機となった。
やがてわたしのもとに、陳凱歌が世界中の注目を集めながら、北京で大変な大作に取り組んでいるという噂が伝わってきた。2人の京劇俳優が文革の受難ののちに離れ離れになり、二十数年後に再会するという物語だという。そうか、いよいよ彼が正面から文革を描くことになったのか。わたしはぜひその場に立ち会いたいものだと望んだ。
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陳凱歌がニューヨークにいく前に完成した作品『大閲兵』のワンシーン |
そして心躍るままに北京を訪れて、撮影現場に向かった。6月の北京はひどく蒸し暑い。撮影はいつも夜の十時ごろから徹夜で行なわれていた。1930年代の北京を再現した広々としたオープンセットを抜けると劇場があった。そこの楽屋で大勢の京劇俳優たちがメイクをしている側で、張国栄と張豊毅が激しくいい争うという場面が撮影中だった。
50人ほどのスタッフの間を探すと、奥まったところで、ビデオ画面を食い入るように覗きこんでは演出の号令をかけている陳凱歌が、眼に入った。半ズボンにアロハシャツ、なりふりかまわずの格好だったが、なぜか首に巨大な真珠のネックレスをしていた。どうやら撮影日程が大きく遅れ、スタッフの間に焦燥と疲労が現われていることが感じられた。
突然、陳凱歌が立ち上がって、撮影を中止させた。撮影所にトラックが到着し、誰かが「吃飯!」と大きく叫んだ。その瞬間に、撮影所内に張り詰めていた緊張が、一気にほぐれた。トラックの荷台から湯気の立った肉饅頭が運びこまれると、スタッフも派手派手しい隈取りをした俳優も、われ先に行列を作ってそれを手にした。陳凱歌はわたしの存在に気付くと表情を崩し、近付いてきた。
「なんだ、来てたのか」。 久し振りにあう彼は、いくぶん髪に白いものが増えていた。「はじめて故郷の撮影所で撮るというのは、どんな感じだい?」
「子供のころから親父に連れて行ってもらった場所だから、特別の感慨というのはないな。ただ撮影中に親父が観に来てくれたんだ。京劇のことで、いろいろ細かいことを教えてくれたね。うれしかった」
「まだアメリカに住んでるのかい?」
「一応アパートはニューヨークにあるよ。でも八カ月も戻ってない。ぼくはもう世界のどこにも家というものがないんだ」。彼はそれだけをボソッといった。
誰かが彼に肉饅頭を渡した。今回はまだ体がもっている。前回の『孩子王』のときは、リンゲル液の点滴を自分で打ちながら撮影したくらいだから、まだ今回は大丈夫だと、彼はいうと、撮影再開の合図をかけた。
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しばらくして『覇王別姫(さらばわが愛――覇王別姫)』は全世界で公開された。陳凱歌はふたたび配給会社に請われて東京を訪れ、連日のようにジャーナリストたちの質問に答えるという日々をすごすことになった。わたしのもとにも公式的な披露パーティーの招待状が来たが、都合が悪く行くことができなかった。
わたしの周囲の誰もが、あたかもそれが東京での最新流行であるかのように、まだ実物のフィルムを観る前から『覇王別姫』のことを話題にしていた。TVの制作会社の若い女性社員がわたしにむかって、「陳凱歌という監督の名前を聞いたことがありますか?」と尋ねてくるのを、わたしは苦笑しながら受け入れた。彼はもはや単に現在の中国映画の監督ではなく、世界的な巨匠と化してしまったのだ。
『始皇帝暗殺』の試写の前日、久し振りに東京で再会した陳凱歌は、一作ごとに次々と巨大化してゆく企画と予算の大きさに、いささか心理的圧力を感じているような印象を受けた。わたしは彼に、たとえば気分転換に自分の幼い子供を
ミリで撮影するといった、世界で一番小さなフィルムを個人的息抜きに作ってみてはどうかと提案した。極大なものと極小のものの間を思いのままに往還できるようになったとき、人ははじめて真の自由に到達できるのではないかと考えているためだ。陳凱歌はわたしの申出を微笑しながら聞いていた。
そう、わたしたちの幸福な無名時代は終わってしまったのだ。それがかつて存在していたことを、むしろ感謝すべきだろう。あとは感傷的なノスタルジアに陥ることもなく、不毛な希望に導かれることもなく、歩いていくだけだ。『辺走辺唱(人生は琴の弦のように)』の石頭少年がそうであったように。
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