杜甫に死が迫ります。
杜甫の死には様々な伝説があります。一般的に書かれていることは「貧しい杜甫が牛肉と白酒をもらいそれを食べて死んだ」ということです。
詳しいことは伝説の彼方に去ってしまっているのですが、事実は潭州(湖南省長沙市)から更に湘江を南に向かい、チン州(湖南省チン州市)を目指しますが、耒陽(湖南省耒陽市)あたりで引き返し、潭州から大暦5年(770)の秋に故郷へ向かったのです。
杜甫がどうしても故郷に帰りたかったことは「舟に登りて、将に漢陽に適かんとす」や「暮秋将に秦に帰らんとして、潭州の幕府の親友に留別す」「小寒食舟中の作」等でもよくわかります。
しかし、これらの詩の中には、「中原戎馬盛んなり」「雲白く山青く万余里、愁え看る直北是れ長安」等の句があります。これらの句は、杜甫がただ故郷を目指していたということとはすこし違うような気がします。杜甫の故郷は河南省鞏義市で、長安ではありません。杜甫の最後の本心は「愁え看る直北是れ長安」だったのではないでしょうか。
私自身も杜甫の晩年は若き日の天下を安んじ人民の生活を守る彼の気概が失われたように思えたのですが、死の直前の詩を読むと絶望の中にあって、杜甫の本当の気持ちが垣間見えるような気がします。生涯憂国の士であり続けた姿が見えるようです。
杜甫にとっての憂国とは何だったのでしょうか。唐王朝の繁栄が人民の安寧につながり良吏が人々と語らい、人々の笑い声が山野に響く世の中だったと思います。それが現出しないことが彼の憂国であり、限りない人民への愛情表現だったのではないでしょうか。杜甫には生涯変わらぬ信念と凄まじいばかりの情熱があったのです。
大暦五年の冬、北に向かう途中、杜甫はその一生を終えます。年は59歳でした。汨羅江を遡った平江(湖南省平江県)あたりではないかと思われるのです。
現地の調査によれば、杜甫は平江の友人の医者を頼ったとなっています。私は平江県の杜甫の墓に二度お参りをしました。一度目は昨年の春、湖南省の山並みを越えてたどり着きました。全く静かな村の小学校の隣に訪れる人もなく、荒れ放題の杜甫の墓を目にしたのです。
二度目は、「杜甫流浪の旅」訪中団として今年の春訪ねました。現在、湖南省詩詞学会会長趙エン森氏を中心に平江県杜甫墓国家重点風景名勝区建設弁公室が組織され、杜甫墓の修復が始まりました。杜甫はきっと気恥ずかしい思いをしているかもしれません。
しかし、彼の残した詩は、彼が願った唐王朝の繁栄の時代を超えて今日まで人々に感動を伝えました。いまこの村の人々の笑顔と楽しげな語らいに杜甫の夢があるような気がします。立派な墓園が修復されると思いますが、それは、今日の人々の杜甫に対する尊敬と仰慕の気持ちの表れなのです。
漢詩望郷は、杜甫の詩を読み終わったところでひとまずお休みします。1999年の7月から4年半にわたって読者の皆様の応援を得て書き続けることが出来ました。詩を読むということは、学問的に読むことも良いのですが、詩人の意境に近づいてみることが大事であるという思いで、詩を読む基本にしました。
私の思いとは違う感想を持つ方もいらしたかもしれません。それもまた良いのです。一旦休止しますが機会があれば読み続けたいと思います。
来年からは、中国茶文化を中心にお茶と詩の関わりやお茶の素晴らしさについて書かせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
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