1980年初めのある年、私は北京を訪れた。
中国では近代化路線が軌道に乗ったばかりだった。私は新聞社に入り、10年ぐらい経っていた。担当が中国だったので、年に2、3回は取材で訪中した。中国の変化を観察するのが目的だったが、学友に会うのが楽しみの一つだった。
「文革」中に農村に「下放」していた友人たちは、ほぼ北京に戻ってきていた。みんな想像できないような経験をしていたが、明るいのが救いだった。
北京では高校の学友が集まってくれた。実は、その年、私はなんとなく体調が優れなかった。疲れやすく、度々頭痛に悩まされ、食欲もあまりなかった。病院に行ったが、別にどこも悪くないという診断だった。
そのことを言うと、北京病院で医者をやっている周君が、自分は歯科だから良くわからないが、知り合いの漢方医を紹介するから、ぜひ診てもらえという。西洋医が発見できない病気を、漢方医が見つけるケースが多々あるというのだ。
次の日、周君は私を漢方医のところに連れて行ってくれた。その漢方医は、病気ではないが、要するに栄養が偏っていると言う。「銀耳」という白いキクラゲを毎日スープにして飲むのが良いという。当時はまだ近代化が始まったばかりで、今のように物資が豊富という時代ではない。「銀耳」といえば食材でもあるが漢方薬でもあり、高価でなかなか手に入らない貴重品だということは私も知っていた。贅沢な処方箋である。
次の日、私は学友たちと十日後にまた北京で再会しようと約束して、重慶、成都に向けて発った。その十日間に何が起きていたか、私はまったく知らなかった。
四川省の取材はハードなものだった。私は疲労困憊して北京に戻ると、早速周君から連絡が入った。すぐ会いに来るという。しばらくして周君、李君、王君が大きなダンボール箱を三つ担いで、汗びっしょりでやってきた。
「そんな大きなダンボール担いでなにごと?」と、ガムテープを剥がすと、詰まっていた「銀耳」が溢れ出すように飛び出てきた。
周君たちは、クラスメートはもちろん、同期の学友を総動員して北京中のマーケットや漢方薬店を回り、「銀耳」を探したという。北京はみんなの協力で、三日でダンボール一杯半の「銀耳」が集まったという。さらに、長春の韓君、大連の黄君、蘭州の蕭君、昆明の楊君らが奮闘して集めてくれたそうだ。「みんな特急便で送ってくれたんでやっと間に合ったよ」と李君は言った。
「これだけあれば一年は大丈夫。今度来る時までにまた集めておくから」と言う王君の声を聞きながら、私はかつて周恩来総理が私に言った言葉を思い出していた。
「たくさん中国の友人を作ってください。将来きっとかけがえのない財産になりますよ」。(おわり)
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